「ナル−? お茶にするけど、いる?」
「あぁ」
かけられた声に、ナルは意識を本から離した。
時計を見れば、すでに夕方時刻になっている。本を読み出したのが、昼過ぎ頃なので、かれこれ数時間は本に没頭していたらしい。
長時間同じ体制で居続けた事に対して抗議を上げる身体を解して、読みかけの本を片手に所長室をあとにする。
見慣れた応接室には何時もの仲間達の姿はなく、珍しい、と頭の片隅で思う。
黒の革張りのソファの定位置に腰を下ろせば、丁度、麻衣が暖かな湯気が立ち上るカップを乗せたトレイを持って来た。
「はい」
「あぁ」
開いた本から目を離す事なく、短く返事を返す。
フワリ、と漂う香りは嗅ぎ慣れたもので心地良く。手を伸ばせば、黄金色の液体が揺れた。
不意に左肩に重みが加わった。
視線をそちらにずらしてみれば、明るい茶色の髪が見える。
「麻衣」
「ん−?」
「何してる」
「本、読んでる。だから、左肩貸してね」
ニッコリと笑って、そう告げれば、了承の意を兼ねた溜め息が落とされる。
本を読むには少々邪魔ではあるが、珍しい麻衣の甘えを断るほど、ナルは冷徹でも冷酷でもないつもりだ。
「珍しいな」
「何が? あたし珍しい事でもした?」
「普段、本を読まないだろう?」
「あぁ、それ。友達に借りたんだ−」
本から視線を上げて、見返してくる。
「何か、今人気作なんだって」
「そうか」
「うん。ナルも読む?」
「僕がそれを読んで何の役にたつ? それを読むくらいなら、出来の悪い論文原稿を読んでいた方がマシだ」
キッパリと言い切った言葉に、麻衣が眉間にシワを寄せる。
「そこまで言うかな−」
「言うな」
「……」
ナルの返答に一つ溜め息を落とす。
そもそもナルに流行の本など薦めた事事態が間違えだった。相手はあのナルだ。読む筈もないし、読んでる姿も見たくない。
ナルとの会話を打ち切って、再び紙面の字を追い始める。そう間も開かない内に、ナルの方も字を追いかけ始めたらしい。
パラリ、パラリ。
静かな部屋に、本のペ−ジを捲る音だけが響く。
何時ものメンバ−はおろか、所員であるリンもバイトである安原も所用でいない。訪れる者のいない事務所は静かで、紅茶の香りに包まれていて心地が良くて。
そんな状況の所為なのかは知らないが、左肩の重みがズルリとバランスを崩して、ナルの方に倒れこんでくる。
読みかけの本と腕を上げれば、その場に麻衣の頭が落ちてくる。覗き込むと、茶色の双眸は瞼に閉ざされており、規則正しい寝息が漏れている。
本を読みながら、睡魔に誘われたらしい。
「………」
どうしたものかと思ってみるが、恐らく麻衣が起きる事はないだろう。
膝の上に頭が乗っている状態の為、非常に本を読むのに邪魔だ。邪魔だが、ここまで気持ち良さそうに眠っている姿を見て、起こすのも忍びない。
良いのか、悪いのか。業務時間はほぼ終了したと言って良い時間帯だ。起こす必要性はない。
フゥと一つ、深いため息を吐いて、読みかけの本を閉じた。そのまま、傍にあったテ−ブルの上に置く。
「この代償は、高いからな。麻衣」
眠っている麻衣に聞こえる事はないと分かっていて、ナルが物騒な言葉を吐く。
ブラインドの隙間から入る光を浴びて輝く髪の一房に、静かに口付けを落とした。
――――眠り姫が起きるまでは、このままで。