涙ひとひら
「望美ー! そんなとこ突っ立って何してんの? 次移動教室だよ。早く来なよねー」
渡り廊下を急ぎ足で通り抜けてゆく友人達の声を遠くに聞きながら、望美は呆然と立ち尽くしていた。
地を穿つような雨が降りしきり、水気を含んだ制服が肌にまとわりつく。普段ならそれを不快に思っているところだが、今はそれすらも望美にとっては何の妨げにもならない。
視界に映るのは土砂降りの雨に見舞われた学校だ。炎に包まれて崩れ落ちる京屋敷でも、優しく微笑って力の源たる逆鱗に手をかける神の姿でもない。
――帰って、きてしまった。
ずっと、帰りたいと願っていた場所へ。
確かに親や友人のいるこの場所へ帰りたいと思っていた。けれどそれは決して、こんな形ではない。
共に飛ばされた幼馴染み達と一緒に、向こうで出会い世話になった人達に別れを告げてから帰ってくる筈だった。望美一人だけが逃げるように戻ってきたかった訳じゃない。
飛ばされた先、京都によく似た異世界で源氏と平氏の戦いに巻き込まれて。怖い思いもした、楽しい思いもあった、たくさんの仲間と出会った。そんな仲間達を放っておくつもりなんてなかったのに。
福原での戦いで奇襲作戦が読まれピンチに陥った望美達の活路を切り開き、師と仰いだ人は敵陣から帰ってくることはなかった。
京が平氏の襲撃に遭った時、望美は九郎と共に鎌倉にいた。
急いで戻ったけれど、優しい軍師と陰陽師とは鎌倉へ旅立つ前に会ったきりになった。
口の上手い青年と大切な幼馴染み、対の神子は炎が回った屋敷で別たれた。
幼き神は我が身を省みず、望美へ元の場所へ帰る道を開いて消えた。
もう一人の幼馴染みは熊野で別れたきり、どうしているかさえわからないままだ。
出会った全てを犠牲にして、望美は帰ってきた。ずっと、帰りたかった場所へ。
「どう……して?」
呆然とした呟きが口から零れる。
意図せず口から零れた呟きの答えを聞かなくても望美は知っているし、わかってもいる。
あの龍神は望美に生きていて欲しかったから、自らの源に手を伸ばして帰る道を開いた。生きていて欲しいと望美にそう、願った。
その願い通り、望美は此処に帰ってきた。
此処にいれば、もう危険に巻き込まれることはない。命を脅かされることもない。白龍の願った事は叶うだろう。けれど、それを受け入れるつもりは一切ない。
成り行きとは言え、望美は龍神の神子を受け入れた。京で別たれたのはその神子を守る八葉と、対の神子、神子に選んだ神その人だ。
その彼らを置いて、どうして一人でのうのうと平和を甘受出来るだろうか。
一人、帰ってきたことへの悲しみと、彼らを残してきてしまった罪悪感で揺れていた瞳が、強い光を宿した。
雨に紛れながら流れていた涙を、雨と共に拭う。
涙を零すのはこれで最後にしよう。
過ぎてしまったものを嘆くことも、それに涙を零すことも誰にだって出来る。けれど、運命を切り開くことはきっと、望美一人にしか出来ない。
未来を切り開く術はある。歴史を歪める覚悟も、必要とあらばこの手を汚す覚悟も、ある。
手にした逆鱗を握りしめて、真っ直ぐに前を見据える。
望美の覚悟を受け取った逆鱗が淡く光り始めた。淡い光だったそれは段々と強い光へと変わってゆく。
どうすれば経験した未来が変わるかなんて、望美にはわからない。けれど、行動しなければ何も始まらない。
飛ぼう、もう一度、あの世界へ。
今度は自らの意思で、運命を変える為に。
強い決意を胸に、逆鱗が開いた道の中へと望美が姿を消す。
知らぬ内に零れた落ちた涙は雨に紛れて、少女本人も知らないままに消えた。
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遥かなる時空の中で3 :: 望美
望美が一番、男前に見える場面だと思うんです、此処が。
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