時は明治六年。
二百五十年近く世を治めていた徳川幕府が倒れ、維新がなって六年経った東京上野。
その上野の一角に拠点を置き、気が向くままに全国津々浦々を巡る旅の一座・葵座。本来なら縁もゆかりもなかった筈のその一座で、葵が世話になる事になったのは何の由縁あっての事だろうか。
新学期を目前とした三月も末。実家の蔵から、突如として投げだされたのは葵が生まれ育った時代から遡る事百四十年余りになる明治時代。
訳も分からぬまま投げ出された明治の東京上野で葵が出会ったのは葵座と名乗る一行と、奇怪な事件の数々。事態を理解しきれぬままに、共に過ごす事になった葵座での、これはほんの些細な話。
厳しい事を言ってくる、葵座きっての看板女形とのふとした日常の事。
「お前、本当に女か!? どうしてそんなにガサツなんだ!」
淋の鋭い叱責の声が飛ぶ。もう何度聞いたか覚えてもいないその叱責に、葵は肩を竦めた。手にしていた台本をギュッと握りしめ、怒鳴る小柄な少年にわからないよう、小さく溜め息を吐く。
(ど、どうしてこうなるんだろう……)
――毎度毎度、台本を渡される度に思う事を、今回もまたソッと葵は胸中で呟いた。
元々、舞台に立っていた訳ではない葵の、演技経験はないに等しい。なし崩しに舞台に立つ事になり、精一杯出来うる範囲で頑張ってはいる物の、それを差し引いても指導に当たる淋の言葉は厳しいの一言に尽きるだろう。
金銭のやり取りが発生するのだ、完璧主義を語る淋の演技指導が厳しくなる理由はわかる。わかるが、舞台経験が初心者に毛が生えた程度である葵の事情も少しは顧みて欲しいと思うのは、いけない事だろうか。
葵が演じる役どころは元々は淋が演じていたと聞いている。演じていた役柄から下りた身としては、後釜がこんなド素人では黙っていられなかったのだろうが、葵とて自ら望んで舞台に立っている訳ではない。
ふってわいた舞台出演の話に驚き、どうにか辞せないかと頑張ってはみたが座長である剣助や鬼格にサラリと流され、なし崩しに出る事になってしまった。
突然飛ばされたこの時代で右も左もわからぬ葵を置いてくれている葵座に恩はあるし、出来る事があるなら役に立ちたいと思う気持ちもある。やむを得ず出る事になった舞台を頑張ろうと思ったその気持ちに嘘偽りは一切ないが、こうも日々駄目だしばかり出されていては腐りたくもなってくる。公演初日まで日がない事を十分理解していても、だ。
「そ、そう言う淋は出来るの!?」
「あぁ?」
「私に文句ばっかり言って! そりゃ、お金のやり取りがあるのはわかってるけど、初心者なんだよ! いきなりリンが望むレベルなんてこなせっこないよ!」
「れべる?」
「あ、えーっと……だから、リンが望むような上手い演技なんて出来ないんだって!」
「……」
葵の言葉に、小さく溜め息を吐いて、淋が檀上へと上がる。突然の淋の行動がわからず、首を傾げる葵へと檀上から淡々と声をかけた。
「――なら、手本を示してやる。葵座の看板女形の実力、そこでよく見とけ」
「リン?」
目を瞬かせる葵を気にした様子もなく、淋が演じ始める。身体に染みついていると言わんばかりのその所作は、何処を見ても女らしいの一言に尽きるだろう。
化粧を施している訳でも、女の衣装に身を包んでいる訳でもない。普段から見慣れているいつもの姿のままだ。ただ、その視線が、その所作が、纏う雰囲気が匂い立つような色香と女らしさを漂わせている。
今、檀上にいるのは淋だ。口が悪く、喧嘩腰で、誰よりも葵に厳しく当たる少年だ。わかっている。だが、その事が頭から抜け落ちてしまいそうな程に完璧な演技。それにただ、ただ見惚れるばかりだ。
葵座の看板女形であると、淋本人の口から何度も聞いた。
それを嘘だと疑った事はなかったが、見た事がなかったのを良い事に、誇張もあるだろうと、軽く流していた。確かにこれだけ完璧に女の所作を演じていれば、葵の所作など見るに耐えないだろう。
「どうだ」
一通り演じ終えた淋が段差を飛び降りて、葵の近くまで戻って来る。
演じていた役から離れてしまえば淋は所作も態度も全てが男のソレで、まかり間違っても先程のように女に見えはしない。演じるとはそう言う事なのだろう。
「……凄い。リンって本当に看板女優だったんだね」
「女優じゃねぇ。女形だ」
呆れたような視線と共に溜め息を淋が零した。
「お前が初心者なのはよくわかってるし、誰も最初から上手い演技なんて期待してない。素人が下手なのは当たり前だがな、そんな事、見に来る奴らには何の関係もねぇ。甘やかして評判を落とされるのは他でもない葵座と――お前自身だ」
「……え」
葵が小さく言葉を零す。
まさか、淋が葵の事を気にかけているとは思いもしなかった。
「大体、出来ない事を強要している覚えはない。お前なら出来ると、そう、思ったから……言った」
ぶっきらぼうな、いつもの淋の言い方。だが、そこにほんの僅かばかり、葵への気遣いのような物を感じるのはきっと、気の所為ではないだろう。
厳しい言葉は全て、葵の為を思っての物。そう理解してしまえば、厳しい言葉は厳しい物ではなくなる。
「……リン」
「何だ」
「私、頑張るね!」
ニッコリと葵が笑顔を浮かべて見せる。
こうして遠まわしに淋が気遣ってくれているのだ、ならばそれに応えなければならないだろう。
「甘やかさないぞ」
「望む所! 絶対、淋に見返させてみせるんだから!」
「有言不実行にならなきゃいいけどな」
「しませんー」
二人の努力がどうなったのか。
それは満員御礼で終わった公演結果と鳴り響く拍手が物語っている。