Call
 斗南の地に、冬の訪れを知らせる風花が舞い降りた。
 最初の風花が舞い降りれば後は、雪は降る一方で止んでいる日の方が少なくなる。
 シンシンと音を吸収しながら降り注ぐ雪景色の中を、斎藤と連れ立って家路を急いでいた千鶴は向けられる視線の、その居心地の奇妙さに足を止めた。
「……」
「……あの、斎藤さん?」
 時に言葉よりも雄弁に語る夜空色の瞳はヒタと千鶴を見据えていて、逸らされることがない。妙な居心地の悪さに千鶴は小さく首を傾げる。
 新選組として刀を振るっていた頃から言葉の少なかった斎藤は、あの頃より多少はマシになったものの、今でも変わらず言葉が少ないままだ。
 ジーッと見つめてくる瞳が何かを言いたそうに訴えていることはわかる。が、生憎と千鶴にはそれを読み取ることも、知ることも出来ない。
 目は口ほどに物を言うが、やはり考えを伝える最善の方法は言葉だと千鶴は思う。言葉にせず見つめるだけで理解して欲しいだなんて、歩み寄る努力を怠っているとしか思えない。
「何か用ですか?」
 問いかけてみても返答はなく、ただ物言いたそうな瞳が千鶴を見据えるだけ。
 気恥ずかしさこそあれど、見据えられる事に何の抵抗もない。だが、言葉にせず瞳で訴えてくるのだけは止めて欲しい。
 察する事を不得手としているのは、短くない付き合いで十分に知っているだろうに。
「斎藤さんってば」
「…………い」
 何度目になるかわからない呼びかけに、ようやく消え入りそうな程小さな声が返ってくる。
「一でいい」
「斎藤さん?」
 淡々といつもと変わらない声音で斎藤が告げる。対する千鶴は突然の斎藤の申し出に、若干困惑気味だ。
「一でいいと言っている」
「あ、すみません」
「謝ることじゃない」
「……確かに」
 自分の言葉を思い出して、千鶴が苦笑を零す。
 名前ではなく、常と変わらない苗字で呼んだだけで、別に謝る必要性はない。それでもつい口から謝罪が出てしまうのは、既に癖に近いものがある。
 それを知っているからこそ斎藤も、そのことについて深くは追求してこない。
「でも、急にどうしたんですか?」
「別に急じゃない。前から思っていたが、言う機会がなかっただけだ」
「あ、そうなんですか……でも、斎藤さん。急に言われてもそう簡単に直ったりは…………斎藤さん?」
 静かに視線を外す斎藤を、怪訝そうに千鶴が見つめる。
 だが、いつもなら間を置かず向けられる優しい瞳も、かけられる声も一行にない。
「斎藤さん? 斎藤さんってば!」
 何度名前を呼んでも、何処吹く風で素知らぬ顔をしている。
 斎藤を呼ぶ千鶴の声には十分な音量がある。そもそも二人の間にあるのはたった三歩程度の距離なのだ。千鶴の声が斎藤に聞こえてない訳はないだろう。
 ならば、何故、斎藤は千鶴の声に返答を返さないのだろうか。
 気付かない間に斎藤を怒らせるような事をしたのだろうかと、千鶴が不安げな表情を浮かべ、斎藤と交わした会話を反芻する。
 思い出す限りでは怒らすようなことを言った記憶はない。ただ斎藤がこんな態度を取り出したのは名前で呼んで欲しいと告げられた、その直後だ。
 ――まさか。
「……一さん」
「何だ」
 何事もなかったように返答をする斎藤の姿に、予測が正しかったことを確信して、小さく溜め息を零した。
「…………名前じゃないと返答しない気ですか」
「あぁ」
 間髪入れず返ってきた肯定に、再び溜め息を吐く。
 寡黙で冷静沈着で振るうは無敵の剣と名高かった頃の姿と、些か変わりすぎてはいないだろうか。随分と、丸く柔らかい性格になったものだ。
「……本当に名前じゃないと返答しない気ですか」
「……何故、そこまで執拗に苗字に拘る。では逆に問うが」
「はい?」
「夫を苗字で呼ぶのはどうなんだ?」
「う……」
 斎藤の言葉に、千鶴が小さく呻いた。
 祝言を挙げた今、千鶴もまた斎藤であり、斎藤さんとは斎藤自身と千鶴を指す呼び名なのだ。
 仮にも祝言を挙げた相手をいつまでも他人行儀な呼び方をする訳にもいかない。それはわかっているのだが、長年慣れ親しんだ呼び方はそう簡単に直りはしないのだ。
「努力はします。でも間違えるのは大目に見てくださいね?」
「……わかった」
 真剣な表情で斎藤を見つめてくる千鶴に、小さな笑みを浮かべる。
「帰るぞ。長居しすぎた」
 千鶴より一歩手前に出て振り返った斎藤が、手を伸ばす。
 差し出された手と、斎藤の顔を代わる代わる見つめてから、千鶴がふわりと微笑った。
「はい」
 差し出された斎藤の手に、自分のそれを重ねる。
 長い戦争の末に時代も立場も色々な物が移り変わったけれど、きっと、この不器用な千鶴の夫は変わらない。いつでも、一見してわかりにくい優しさを注いでくれるだろう。
 いつか、別れが二人を隔ててしまうその時まで、ずっと。
「……一さん、帰ったら温かいお茶淹れますね」
「――あぁ」
 寄り添い、再び歩き出した二人の足跡を消しさるように、雪が空から舞い降りる。
 雪を踏みしめ歩く音だけが静かに響いて、空気に溶けて消えた。


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