散り花
 日本最北端の蝦夷の地の春はいつも短く、少々急ぎ足で駆け抜けてゆく。
 あっと思う間に花は蕾を綻ばせ、その短い生を全うし、次の為に種を残して散ってゆく。江戸や京の地に居た頃と比べ物にならないくらいにその生の周期は短くて、早い。
 ――そんな蝦夷の地で、春を感じるのは何度目だろうか。
 庭先で風に遊ばれ舞う薄桃の花びらを眺めながら、ボンヤリと千鶴は思考を彷徨わせた。
 旧幕軍と新政府軍。
 二つの大きな勢力が最後に争ったその地に、居を構えたのは戦争の終わった直後の事。
 江戸に帰ると言う選択肢もあるにはあった。だが、土方は新選組終焉の地である蝦夷に留まる事を望み、それを選んだ。
 新選組最後の局長としての責任からか、それともそれ以外の理由からか。
 土方が何を思って留まったかを知る術を、あの時から千鶴は持たないままで、土方が千鶴にそれを語る日もきっと、来ないままだろう。
「千鶴」
 穏やかで柔らかい声音が、彷徨う思考を呼び戻す。
 振り返った先では土方が声音と同じ穏やかさを称えた瞳で、千鶴を見ている。
「歳三さん、起きてて大丈夫ですか?」
「別に病人って訳じゃねぇよ」
 心配そうに表情を曇らせた千鶴に、土方が苦笑を零す。
 年月を重ねるほどに土方の力も体力も落ちていく一方で、それは年月を重ねれば重ねるほどに顕著に表に現れてゆく。
 最初は腕力が弱くなった。次は体力が落ちた。握力も剣を振るっていた時よりも弱くなった。歩く事も起きる事も出来なくなるのは一体、いつの事だろうか。
 体力が、力が落ちた事に気付く度に、土方は時の流れが恐ろしくなる。留まることなく流れる時はいつか、確実に土方に終焉をもたらす。それも、遠くない未来に。
 そうして土方は、誰よりも愛しんでいるたった一人を置きざりにして、世界へ還る。
 千鶴の元に思い出だけを残して、体も骨も残さずに灰となって消える。
「そうですけど……心配で」
「お前は心配症だな。まだ死にはしねぇよ」
 別れは誰にでも訪れる等しい物だ。
 それが遅いか、早いか。違うのはただ、それだけ。
 土方にとってはそれくらいの認識しかない軽い物だった……少なくとも、あの頃は。
 今は少し、違う。
 誰にでも訪れる等しい物と言う認識に変わりはない。だけど、訪れる死が最近、土方は恐ろしくなった。
「……」
「千鶴」
 こいこいと刀を握っていた土方の武骨な手が千鶴を招く。
 その手に招かれて、千鶴が大人しく土方の元へと歩み寄る。近寄ってきた千鶴を後ろから抱きしめて、土方が静かに目を閉じた。
「歳三さん?」
「怖いのはお前だけじゃねぇよ、千鶴」
「え」
 ポツリと零された言葉は、紛れもない土方の弱音。
 普段、零されることのない言葉に、千鶴が顔を土方へと向ける。
 見上げた土方の表情は困ったような笑みに彩られている。だが、その笑みがまるで泣いているかのように見えたのは、きっと気のせいでも何でもなく。
「お前を置いて、逝く事が怖い」
 涙を拭うのも、苦楽を共にするのも、穏やかな年月を重ねるのも、全てが土方だけに許された特権。土方だけが千鶴に出来る事。
 今はまだいい。
 土方はまだ此処に居て、涙を拭えるから。苦楽を共に出来るから。穏やかな年月を重ねる事が出来るから。だけど、土方が逝った後はどうなるのだろうか。誰がそれを千鶴にしてやるのだろうか。
 誰にもその役目を譲りたくなんてない。だけど、一人で全てに耐える千鶴を見たくもない。相反する思いは嘘偽りない土方の気持ちだ。
 泣き顔なんて見たくない。
 いつでもどんな時でも、千鶴には笑っていて欲しい。
「……だったら、逝かないで下さい」
 消え入りそうな小声で千鶴が呟いた。だけど、土方はそれを意図的に無視する。
 逝きたくない。
 逝かないで欲しい。
 抱える思いは同じもの。だけど、別れは二人の元に訪れる。無慈悲な時は二人の思いを無視して、確実に最後を呼び寄せる。
「桜」
「え?」
 唐突な話題転換に、千鶴が声を上げる。
 怪訝そうな表情の千鶴に笑みを返してから、庭へと視線を向けた。つられるように千鶴の視線も庭先へと向かう。
 短い春の優しい風に、淡い薄桃の花が風にそよそよと揺れている。
 散り際も見事に凛と咲くその花が土方に似ていると思ったのは、函館戦争も終結に近い頃のこと。
 桜に似たその生き様を称えて土方を薄桜鬼と呼んだのは、誇り高い鬼だった。
 儚いようでいて何処か凛とした響きを持つその呼称を、千鶴は密かに気に入っている。まるで土方につけられる為だけにあったような呼び名だ。
「庭に桜を増やすか」
「え……と? どうしたんですか、一体」
 千鶴の問いかけに、土方は淡く微笑むばかりで答えようとしない。
 強風が花びらを空に巻き上げながら、通り過ぎていく。
 日々、季節は移ろうばかりで、留まることを知らない。別れの瞬間は刻一刻と二人の身に迫りきていた。

  ◆

 元々、眠りの浅い土方は夜中にふと、眠りの淵から目覚める時がある。その度に決まって、穏やかな寝息を立てる千鶴に起こさない程度で触れる。
 そして、千鶴に触れた指先を通して知る。
 手が、感覚が、体がある事を。
 己の手で、まだ千鶴に触れる事が出来る事を。
 そんな当たり前のことに泣きたいくらい感謝の気持ちを抱くのは、己の死期が間近に迫っている所為だろうか。
 泣く子も黙る鬼副長と呼ばれていた頃と比べて、随分と弱くなったと土方は自分自身でも思う。
 弱くなったと言ってもそれは体力が落ちたとか、力が弱くなったとか、そう言った意味合いではなく。気持ちの問題で、だ。
 あれだけ日常的に傍にあって、今まで恐れてなかった死が怖くなった。
 ――千鶴と想いを交わしたから。
 共に日々を重ねる事を幸せだと感じてしまったから、やがて訪れる死が怖くなった。 いつまでも共にありたいと思っても、それは叶わぬ夢だ。
 変若水を飲み、羅刹となることを決めたあの時から起こりえる事態への覚悟は出来ていた。だから、変若水を飲んだ事に後悔はない。飲まなければ、あの風間と言う男から千鶴を守れなかった。共に同じ夢を見た隊士達を無駄死にさせてしまうことになった。あの時はあれで良かったのだと、土方は今でも断言出来る。
 後悔でもなく、恐怖でもない。ただ、千鶴一人を残して逝ってしまうことだけが、土方の胸中を掻き乱して死を恐れさせる。
 それでも、流れる時は誰にも止められない。
 土方に残された時間は、残り少ない。自分自身のことだからこそ、殊更、残りが僅かな事が手に取るようにわかってしまう。
 来年の桜を、千鶴と共に見ることは出来ないだろう。それまでに、命は尽きて還る。
「……ん」
 小さく声を上げて寝返りをうった。
 幸せそうな寝顔を浮かべる千鶴を、土方は複雑な思いで見守る。
「……泣くんだろうなぁ、お前は」
 考えなくてもわかる。
 間違いなく泣くだろう、彼女は。人目も憚らず、たった一人で涙が枯れてしまうまで。
 土方の為に流されるその涙を、土方本人は拭えない。
 花でも鳥でも風でも何でもよい。千鶴の涙を拭える物になれればいい。だが、土方が死んだらその体は灰となって崩れるだけだ。花にも鳥にも風にもなれない。千鶴の涙は拭えない。
 その事実が酷く、もどかしくてたまらなかった。

 ◆

 時間に限りがある所為なのか。
 季節の移り変わりをやけに早く感じた。爛漫と咲き誇っていた花は既に散り去り、残された葉が茂るばかり。
 春を終えた初夏の爽やかな風が、結わえた髪をさらって通り過ぎる。葉々がサワサワと揺られて涼しげな音を立てていた。
「……これじゃ来年辺りには桜屋敷になりそうですね」
 多分な呆れを含んだ声音で千鶴が呟く。
 ――桜を増やすか。
 そう土方が千鶴にぼやいた翌日から、一本ずつ桜の木が庭に増えられていった。一本だけだった桜が二本に増え、三本に増え、そうしてとうとう、庭の桜の木はゆうに十本を越えている。
 これでは来年の春は庭が満開の桜に占領されてしまう。
「いいじゃねぇか。平助達が居たら喜んで花見しそうだ」
「……確かに」
 笑う土方につられるように、千鶴も小さく笑みを浮かべる。
 何処からともなく酒が持ち出されてきっと、宴会になる。
 酒がほどよく回った原田が十八番の腹芸を披露し、永倉と藤堂がそれを煽り、沖田がお猪口を傾けながら眺めて、斎藤がそれをいつもと変わらない表情で見る。きっと、そんな彼らを山南や近藤達が見守っているだろう。
 いつでもありありと思い出せる懐かしくて、少し物悲しい春の光景。
「……風間の野郎も、お前も俺を桜に例えたがな」
「?」
 遠くを見るような視線を庭に向けたまま、土方が口を開いた。千鶴はただ黙って、それに耳を傾ける。
「俺だけじゃなくて、お前も桜が似合うと思うぜ。お前だけじゃない。近藤さんも、総司も、斎藤も、原田も、永倉も、平助も皆、桜が似合うだろうよ」
「……」
「咲き誇って、潔く散っていく姿は新選組の奴らに似てる」
「皆に……」
「あぁ」
 視線を外へと向ける。
 夏へと踏み出したばかりの太陽の光は温かな光を桜の枝葉と地面に注ぐ。作られた影は微細な色を伴い、涼やかで何処か幻想的に見える。
 潔く咲き誇り、潔く散りゆく桜と、己の誠を信じ、己の誠に殉じた新選組は確かに似ているかも知れない。
「なら……皆が、いるみたいですね」
 庭に植えられたたくさんの桜の木々に、かつて道と志を共にした仲間達の姿を重ねる。
「そうだといいがな」
「そうですよ、きっと」
 千鶴が微笑み、それから目を翳らせた。
 何気ない幸せな日々をあと、どのくらい重ねてゆけるのだろうか。それを思うと、千鶴は不安になる。
 土方は何も言わないが、体が限界に達していることに千鶴は薄々と気付いている。この夏を無事に乗り越えられるかも危ういくらい、残された時間は少ない。
「千鶴」
「はい……どうかし……!!」
「どうした?」
「……歳三……さん」
 千鶴の目の前で、土方の髪の一部が崩れて灰となり、風にさらわれてゆく。
「……あぁ、もう時間なのか」
 流れてゆく灰を目で追って、穏やかな声音で土方が紡ぐ。
 最近は、体に力が入らないことが多かった。そろそろだろうと覚悟は出来ていた。
「いやです……逝かないで……」
 それが無理な願いだとわかっていても、千鶴は願わずにはいられない。
 別れたくない。土方と共に重ねた月日は十年にも満たない。まだ、遣り残した事はたくさんある。老人になるまで二人共にありたい。
 だが、ゆっくりと輪郭をぼかしていく土方の体はそれが無理だと告げている。肩が、腕が、髪が、指が、ゆっくりとぼやけて、灰となって崩れてゆく。
「……泣くな」
「無理……言わ……下さっ……」
 ボロボロと開かれた両目から涙が溢れて、零れ落ちてゆく。
 泣くなだなんて、無理な話だ。そもそも、止めたくとも止められない。溢れる涙は既に千鶴がどうこうした所で止まらないだろう。
「泣き止むのが無理なのはわかってるけどよ。最後の瞬間くらい、笑顔見せろよ」
 最後だから。
 逝く前の最後の瞬間くらい、笑顔を見せて欲しい。
 無理な願いなのは知っていても、最後の記憶が泣き顔なのはあんまりではないか。
 いつだって、千鶴には笑っていて欲しいと願い、土方は守ってきたのだから。
「……こう……ですか?」
 零れる涙はそのままで。
 それでも口端を持ち上げて、千鶴が笑む。
 笑顔と呼ぶには相応しくないその笑みは、それでもとても儚く、綺麗で。
「――あぁ」
 満足そうに土方が笑った。
 ひどく優しくて穏やかな、笑顔。
「悪かったな、ずっと最後まで共にいられなくて」
「……いいえ」
 千鶴がブンブンと首を振る。
 最後まで共にあれないことは悲しくて寂しい。だけど、土方と共にあった間、千鶴は確かに幸せだった。
 思い出や気持ち、幸せ……何ものにも変えられないかけがえのないものをたくさん、土方から貰った。
 千鶴はそれと同じくらいの物を土方に返せているのだろうか。
「私……はっ……歳三さんを……幸せに出来ましたか?」
「……はっ。何を今更。当たり前に決まってんだろ」
 千鶴の言葉に目を見開き、それから苦笑を零す。
「眩暈がするほどに、幸せだったさ」
 今まで数え切れない人を斬り殺してきた土方には過ぎる程の、幸せで穏やかな数年間。
 土方一人では得られなかった。
 千鶴がいたからこそ、得られたかけがえのない時間。
 きっと、これに勝る幸せなんてこの先、どれだけ時間を重ねたとしても得られなかったに違いない。
「よか……っ……た」
「……千鶴」
「はい」
「千鶴、千鶴、千鶴、千鶴、千鶴」
 何度も、何度も、繰り返し名前を呼ぶ。
 もう、呼ぶことが出来なくなる名前を馬鹿の一つ覚えのように、たくさんの想いを込めて繰り返す。
「愛してる」
 その言葉を最後に、土方の体が灰となって崩れさる。
「……私も、です。愛してます、歳三さん」
 いつか来るこの日への覚悟は出来ていた。それでもやはり、胸が痛い。まるでポッカリと穴が開いたように、喪失感がついてまわる。
 涙が、溢れる。
 願っても、求めても、もう、土方はいない。千鶴の涙を拭ってくれる人は、その生を終えた。
 ――たくさんの思い出と幸せと想いだけを千鶴に残して。
「……うぇ…………歳……ぞ……さん」
 人目を憚らず、声を上げる。
 声を押し殺して泣くには、あまりにも失った物が大きくて、愛しすぎた。
 怖くて厳しくて優しい、最愛の人。
 共にあった日々は幸せで愛しかった。それだけはどれだけ月日が経とうとも、変わらない。いつまでも色褪せることはない。
 唐突に、風が、吹きぬけた。
 崩れた灰が風にさらわれて、空へと舞い上がってゆく。その際に揺らされた葉の擦れ合う音が、まるで千鶴を慰めるように奏でられる。
「……歳三さん?」
 涙が、途切れた。
 吹き抜けていった風は、まるで千鶴の涙を拭うかのようで。その風に何故か、土方を感じたのだ。
「きて……くれたんですか?」
 涙を流す千鶴を放っておけなかったのかもしれない。涙を拭うのは土方の役目だった。
 独り言に近い千鶴の呟きに答えるかのように、もう一度、風が残った灰をさらって、空へと上がっていった。


template : A Moveable Feast