君と二人、同じ傘
ポツリ、ポツリと雲間から零れ落ちた雨雫は勢いを増すばかりだった。明るい色を湛えていた空は、あっと言う間にどんよりとした鉛色に覆われて、今は薄暗い。
中庭に面した縁側で取り込んだ洗濯物をたたみながら、千鶴はゆっくりと空へ視線を上げた。
つい先程まで晴れ渡っていたのが嘘のような外を眺めながらホッと安堵の溜め息を吐く。
空気に水気が混じったような気がして洗濯物を早めに取り込んでおいて、正解だった。取り込み損ねたら、せっかくの洗濯物が台無しになってしまうところだ。
ザアザアと降りしきる雨音に耳を傾けながら、洗濯物をたたむ。取り込んで間がないそれらは、ほんのりと太陽の匂いをさせていて心地よい。知らず、千鶴の口元に笑みが浮かぶ。
「……何が嬉しい」
「きゃあ!!」
突然、後ろからかけられた声にビクリと肩を揺らす。
背後には誰の気配もなかった筈だ。
千鶴が気配を読むのに長けているのではなく、驚かせないようにと幹部面々は千鶴の下を訪れる時、気配を絶たないようにしているのだ。たった一人を除いて、だが。
「さ……斎藤さん」
振り向いた先に立っていたのは、予想通りに斎藤で。
斎藤本人に悪気がある訳ではなく、ただ長年の癖で無意識に足音を忍んでしまうらしい。
「……すまない。驚かしたようだ」
「いえ、気にしないで下さい」
申し訳なさそうに視線を伏せる斎藤に、千鶴が笑んだ。
確かに驚きはするが、それでどうと言う事はない。むしろ、千鶴の方こそ慣れなければならないだろう。
「それより、どうかしましたか?」
「あぁ、今、手は空いているか?」
「え? はい。これで終わりですから、一応」
たたみ終わった洗濯物を軽く手で叩く。
千鶴が主にやっている仕事はこの洗濯物で一段落ついたところだ。幸い、他には請け負っている仕事もない。
「では、すまないが、平助を迎えにいって欲しいのだが」
「平助君を?」
斎藤の申し出に千鶴が首を傾げる。
「でかけた時は晴れていたんだがな」
「あぁ……」
チラリと斎藤が外に目を向ける。つられて外に視線をやった千鶴が納得言ったように頷いた。
雨が降り出したのは本当につい先ほどの話だ。
藤堂がいつ出かけたかを千鶴は知らないが、少なくとも雨が降りそうもないくらい晴れていた頃合いだろう。ならば、きっと傘を持ってでていないに違いない。そして、傘なしで帰ってくるには少々、雨脚が強すぎる。
「わかりました。迎えに行けばいいんですね?」
「すまないな」
素直に頷いた千鶴に、滅多に浮かべない笑顔を斎藤が浮かべる。
「いいえ。で、平助君は何処に行ってるんですか?」
「九条川原だ」
「九条川原ですね。わかりました」
かなり屯所から距離があるが、決して歩いていけない場所ではない。巡察以外に屯所の外に出ることのない千鶴にとってはいい運動代わりだ。しかし、それには一つ問題がある。
「あ、でも私一人で外には……」
困ったように千鶴が斎藤を伺う。
今の京の都は治安が悪い。加えて、千鶴は鬼と名乗った三人組に狙われている為、一人で屯所の外へ出る事を禁じられている。
迎えに行きたいのは山々だが、それで新選組に迷惑をかけてしまっては申し訳ない。
「心配するな。俺もちょうど、あちらの方に用がある」
「そうなんですか」
「あぁ」
「でも、いいんですか? 斎藤さん、私用で出かけるんでしょう? 私が一緒だとお邪魔じゃないですか?」
「気にするな。平助の迎えを頼んだのは俺だからな」
当然と言う態度を崩さない斎藤に、千鶴が小さく笑みを浮かべる。
申し訳ない気持ちはあるが、誰かが一緒じゃないと千鶴は屯所から出られないのだ。ここは素直に斎藤の厚意に甘えておく。
「じゃあ、お世話になります」
「先に行っておけ。すぐに行く」
「はい」
小さく頷き、洗濯物を抱えて千鶴が玄関へと立ち去っていく。それを見送ってから、用意をすべく斎藤もその場を立ち去った。
◆
「何だよ、この雨ー」
止む気配を見せない雨を眺めつつ、藤堂は溜め息を吐いた。
出かけた際には雨一つ降りそうもない天気だったと言うのに、今では晴れていたのが嘘のような大雨だ。
九条川原から西本願寺までは遠くはないが近くもない距離がある。歩いて帰れないわけではないが、帰っている間に間違いなく全身ずぶ濡れになってしまうだろう。
ずぶ濡れになったところで体調を崩すほど、柔な鍛え方をしているつもりはないが、濡れることがわかっているのに雨の中に踏み出すのも何となく気分がよくない。かと言ってここにいたところで雨が止む保障もないのだから、そろそろどうするかを決めなければならないだろう。
ずぶ濡れになって帰るか、それとも雨が止むまで待つか、来るかわからない迎えに期待するか。
藤堂が選べる術は三つに一つ。
藤堂本人としては前二つは遠慮したいのが本音だ。濡れて張り付く着物は不愉快だし、雨が止むのを待つのも嫌だ。
最後の一つは以前の新選組なら期待するだけ無駄だったろう。所詮は男所帯。雨が降ったからと迎えを寄越すような気配りが出来る者はいなかったのだから。
だが、今なら期待しても良いかも知れない。紅一点の千鶴はそう言った細かい気配りを得意としている。出かけていると気付いて迎えに来てくれるかも知れない。しかし、千鶴は一人での出歩きを禁止されている。誰か千鶴についてくる人がいなければ、迎えに来る事も出来ない。これは、期待するだけ無駄のような気がする。
そう思った矢先の事。
パシャパシャと地に這った雨水を踏みしめる音が、響く。
音の方へ視線を向ければ、赤い番傘が雨で効かない視界に移った。
「千鶴?」
「あ、平助君。迎えに来たよ」
ニコリと千鶴が藤堂に笑いかける。
「……何やってんだよ、お前。一人で来たのか」
確かに迎えに来て欲しいと淡い期待は抱いた。が、一人で来て欲しかったわけではない。
千鶴は鬼に狙われている。こんな視界の悪い雨の日、一人で出かけるなんてさらって下さいと言っているようなものだ。
「え? ううん。さっきまで斎藤さんと一緒だったよ」
「一君? でもいねぇじゃん」
「えーっと、すぐそこまで一緒に来てくれて、平助君の姿みえたからもういいだろうって」
藤堂が雨を凌ぐ軒から二丈ほど離れた角を指差す。
ほんの目と鼻の先の距離まで斎藤が千鶴と一緒にいたと言う事実は、藤堂にとって面白くない。が、それは仕方のないことだ。
千鶴は鬼に狙われていて、幹部の誰かと一緒じゃないと屯所の外に出れない。その幹部の誰かが、たまたま斎藤だっただけの事。それ以上でも、それ以下でもないだろう――そうでないと、困る。
「二丈の間に何かあったらどうするつもりなんだろうなぁ、一君」
「平助君がいるから大丈夫だと思ったんじゃない?」
「……」
果たして、本当にそうなのだろうか。
斎藤に限ってそれはありえないとは思うが、言葉に出さず胸の内に留めておく。斎藤の考えは斎藤にしかわからない。
「じゃあ、帰ろう?」
「あぁ。そうだな」
「でね」
先程まで自分がさしていた傘を藤堂に差し出して、千鶴が苦笑を浮かべる。それを受け取ってから、藤堂が苦笑を浮かべる千鶴を見やった。
「ん?」
「実はね」
「それより、お前、自分の分の傘はどうしたんだよ。忘れたのか?」
「違うよ!」
呆れた表情を浮かべる藤堂に、断固として言い返す。
決して、千鶴は自分の分の傘を忘れた訳ではない。偶然に偶然が重なった結果、藤堂に渡した傘以外が全て出払っていただけなのだ。
「たまたま全部使われてて、これ一本しか残ってなかったの」
「ふーん。そんな事もあるんだな」
「そうみたい。それで、ごめんね。同じ傘使って帰るしかないんだけど……」
「ま、仕方ねぇな。ほら」
渡された傘を、渡した本人の頭上に差し出す。
細くしなやかな手が傘の柄を受け取ろうとするのを、柄を握る腕に力を込めて静止する。
「傘持つよ?」
「いいって。千鶴より俺の方が背が高いし。迎えに来て貰って傘持たすのもなんだしな」
「……ありがとう、平助君」
「気にすんなって」
申し訳なさそうな表情を浮かべる千鶴に、藤堂が快活に笑ってみせた。明るい藤堂の笑顔につられて、千鶴も笑顔を浮かべる。
「そう言えば、平助君、此処に何しにきたの?」
この界隈の店に藤堂が用があるとは考えにくいが、ちょっと出歩くにしては距離がありすぎる。ならば、この辺りの店に用があったのだろう。
雨の中に足を踏み出しながら、千鶴が問いかけた。
別に答える分には問題ないのか、アッサリと藤堂が口を開く。
「ん? あぁ、これこれ」
ゴソゴソと探った懐から取り出した小さな包みを千鶴の手に乗せる。緩く捻られた包みを開ければ色とりどりの星――もとい、金平糖の姿が見えた。
「わぁ……金平糖」
「やるよ。千鶴甘いの好きだろ」
「! 知ってたの!?」
甘いものが好きな事を新選組内で公にした覚えは千鶴にはないが、甘いもの好きを隠している訳でもない。
新選組の世話になりだして直ぐの頃、一度、近藤に言ったこともある。知られていて困る事ではないが、何となく申し訳ない気持ちになる。
「んー、まあな。前に近藤さんと千鶴がお茶してるとこに通りがかったことあってさ」
「あ……あの時?」
「そう。せっかくの和やかな雰囲気邪魔すんのもなんだから引き返したんだけどさ」
「別に構わなかったのに。近藤さんに用があったんじゃないの?」
「別にそう言うわけじゃねぇって。まぁ、例えそうだったとしても、今更過ぎたこと言ったって何にもなんねぇけどな」
「まぁ、それはそうだけど」
小さく千鶴が苦笑を浮かべる。
確かに、今更の話を蒸し返したところで何にもなりはしない。既に一年以上も前。本人達ですら記憶の彼方にやりかけていた話だ。
「でも、本当に貰っていいの?」
「いいよ。千鶴にやるために買ったんだから」
「……貰う理由ないけど」
「いつも洗濯とか掃除とか頑張ってくれてるだろ。その御礼」
「新選組にはお世話になってるし、あれくらいは……」
やらないと、誰が許しても千鶴自身が許せない。何もせずに世話になるのは何だか居心地が悪い気がするのだ。
「でもさ、幹部だけでもかなりの量あるだろ? 掃除する範囲だって広いしさ。千鶴はよくやってるよ」
誰でも出来る些細な仕事と千鶴は言うが、そんなことはないと藤堂は思う。毎日洗濯するなんてマメなことを男所帯ではしないし、掃除なんてもっての外。布団を日に干すなんて考え、頭の片隅にもないだろう。
今、藤堂含めた幹部達が洗い立ての洗濯物を着ていられるのも、屯所内と庭が綺麗なのも、日干しされて寝心地のよい布団も千鶴の功績だ。それは誇るべきものであり、謙遜する必要はない。
どんな内容だろうと仕事は、仕事。与えられた以上の事を千鶴はキッチリとこなしている。
「と言うことでいつもご苦労さん。これからも宜しく」
おどけた調子なのは千鶴が必要以上に気にしない為の、藤堂の優しさだ。それを知っているから千鶴も小さく微笑む。
「ありがとう。これからも、頑張るね」
「んじゃ、帰るか。早くしないと屯所着く前に暗くなりそうだしな」
「そうだね」
天気の所為でわかりにくかったが、相当日が傾いているようだ。これでは屯所につく頃には宵闇を迎えていそうだ。
「今度、一緒にお茶でも飲もうね。これお茶請けにして」
「楽しみにしてるよ」
二人、顔を見合わせて笑う。
知らず止まっていた歩みを再開させて、岐路へとつく。やがて、赤い傘は宵の闇に飲み込まれて見えなくなった。