花開く頃に
 ヒラリ、と風に遊ばれた花びらが杯に波紋を描いた。それを花びらごと飲み干して、永倉が破顔する。
「酒に花びらたぁ、風情があるねぇ」
「花びらごと飲まなくても……」
「わかってねぇなぁ、千鶴ちゃん。こう言うのは飲み干してなんぼだぜ」
 チ、チ、チと苦笑する千鶴の目の前で指を振って、キッパリと言い切る。だが、酒を嗜まない千鶴には永倉の言い分がよくわからない。
「そう言うものですか……」
「そう言うもんなんだよ」
 快活な笑みを浮かべて永倉が再び徳利を傾ける。対して千鶴は未だに怪訝そうな表情を浮かべたままだ。
 兄が妹にしてやるように頭をポンポンと、永倉が千鶴の頭を軽く叩く。
「わかんねぇなら、わかんねぇままでいいって。それにしても、よくもこんなに植えたなぁ、土方さん」
 視線を千鶴から庭へと移して、感嘆の声を上げる。
 庭から見える景色一面、薄い桃色に埋め尽くされている。見渡す限りの桜の木にはただ、圧倒されるばかりだ。
「ふふ、頑張ったんですよ、歳三さん」
「そりゃあ認めるけどよ」
 これだけ大量の桜の木を見れば頑張ったことはわかる。だが、それにしても植えすぎではなかろうか。
 と、言うか。
 かつての新選組の鬼の副長がせっせと木を植えている姿など面白いを通り越して、恐ろしい。一体、どんな顔をして植え続けたのか。
 瞬間、頭に浮かびそうになった光景を頭を振って払う。
 知らない光景は、知らないままのほうがいい。好き好んで想像する趣味も永倉にはない。
「そう言えば、永倉さん。その手の読本は何ですか? 永倉さん、本なんて読むんですね」
「あ? あー、読本じゃねぇって。つか、相変わらず、俺を何だと思ってんだ? 千鶴ちゃん」
「……あはは。読本じゃなかったら何なんです?」
「あー、これから書くんだよ」
「え?」
 何処か照れくさそうに呟く永倉に、千鶴が問い返す。
「新選組のことを語り継ごうかと思ってよ」
「新選組を……」
「あぁ。新政府軍の奴らと思想こそ違ったけど、俺達もこの国の為に戦ってただろ? だけど、結果として俺らの属してた幕府軍は負けた。そうなったら、誰が俺らの事まともに書き残してくれるっつんだろーなと思ってよ」
 数多の志士を切り殺してきた新選組を恨みこそしても、正しくあったがままに書き残してくれる新政府軍などいないに等しいだろう。
「だから、誰かが語り継がなきゃ、埋もれちまうだろ? 全部」
「……そう、ですね」
 誰かが正しく語り継がなければ、新選組の志も誠も全てが時の流れに飲み込まれて、忘れ去られてしまうだろう。
 そうして、新選組は新政府軍に逆らったただの人斬り集団として歴史に残ってしまう。
「語り継ぐのは生き残った奴の仕事だと俺は思ってんだ。近藤さんと志と道は反れたけど、俺は新選組の幹部だし、それに……仲間だしな」
「それが……良いと思います。悪者扱いされてしまうのは悲しいです、やっぱり」
 京にいた頃から新選組はあまり良い印象を持たれてなかった。乱暴で人を殺す事が好きな人斬り集団……それが、一般的な新選組に対する認識。
 千鶴自身も知り合うまで、そう言う認識を持っていた。だけど、今は優しくて人情味のある――一部、例外がいるにはいたが――人達だと知っている。大切で大好きな人達だ。
「でも、何処から書き始めるんです?」
「ん? やっぱ京に行く事になった経緯からだろ」
 永倉が懐かしそうに笑む。
 遠い昔の懐かしい記憶。たくさんの出会いと別れを繰り返した。良い事も悪い事もあった。それら全てを永倉は、未だ色鮮やかに思い出せる。
 例え、賊軍と呼ばれていたとしても自分達は確かに、自分達の志の下に戦ったのだ。誰に認められなくとも、自分達には自分達の正義があった。
「あの、永倉さん。歳三さんのことなんですけど」
「ん?」
 永倉が千鶴に視線を向ける。
「生き残ったんじゃなくて、明治二年の函館総攻撃の日に戦死した事にしておいて下さいませんか?」
 真っ直ぐに永倉の目を射抜いて、千鶴がハッキリと口にする。
「別に俺はかまわねぇけど、いいのか?」
「はい。新選組副長としての歳三さんはあの日、戦死した。それが一番いいと思います。あの時、本当は新選組の元に駆けつけたかったでしょうから」
「だから、それでいいって?」
 永倉の問いに答えず、真っ直ぐ見つめたままで千鶴が小さく笑む。
「それに、鬼や羅刹の事を伏せて書くと歳三さん、ただ戦場から逃げた人になってしまうと思うんです。かと言って鬼や羅刹の事を仄めかす訳にはいかないでしょう?」
「あー……」
 永倉が苦笑を零す。
 鬼と戦って力尽きた土方は戦場に辿り着けなかった。確かに、事情を知らない人から見れば最後の戦いを前に逃げただけのように見えるだろう。だからと言って、鬼や羅刹の存在を表に出す訳にはいかない。
 鬼は静かに暮らす事を望んでいるし、羅刹は人道に背いた実験の犠牲者なのだ。このまま静かに、歴史の中に埋めるのが一番いい。
「ね? それが一番いいでしょう?」
「……それが一番いいが……本当にいいんだな? 誰の記憶にも残らないんだぜ? 千鶴ちゃんと土方さんのこと」
 永倉の言葉に、一瞬、千鶴がきょとんとした表情を浮かべる。続いて、フワリと相好を崩した。
「私は幸せでしたから。いつか歴史に埋もれるとしても、誰からも忘れ去られるとしても、私が知っているから。それで、いいんです」
「……土方さんには過ぎた奥さんだよなぁ。わかった。土方さんは函館戦争で戦死した事にしとくぜ」
 永倉が千鶴に告げる。笑みを浮かべたままで、千鶴がそれに小さく頷いた。
 それは、桜の花が爛漫と咲き誇る頃の話。


 ――明治二年五月十一日 土方歳三討死ス
 永倉の手記「浪士文久報国記事」は、それを最後に筆が置かれている。


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