祈想
 慕ってくれた部下だった。同じ夢を見た仲間だった。だが、それら全て少し前までの事だ。
 今の彼らはただ其処に在るだけの骸で、身動き一つする事はない。千鶴と井上が助力を求めて、淀城へと出向いている間に全ては失われた。
 これから先を、未来を担っていくべき者達だった。今、こんな所で死んでいいような者達ではなかった。
 部下達の命を奪ったのは井上だ。
 判断を間違えた。連れていけばよかった。待機させておくのではなかった。もっと他の場所で待機させておくのだった。
 全ては過ぎ去り、終わってしまった事。だからこそ、後悔は尽きず、頭を過っては消えていくばかりで。
 尽きぬ後悔が絶えず頭を過り、同志達の死体の中で哂う鬼に言葉に尽くせぬ怒りを覚える。
「おまえが戻ってくるまでの退屈凌ぎにこの連中と遊んではみたが……暇すらつぶせなかったな」
 握った拳が怒りで震える。
 退屈凌ぎ。たったそれだけの為に、今、地に伏している部下達の命はこの鬼に奪われたのか。無論、黙って殺された訳ではなく、新選組隊士として皆が果敢に挑んだ結果が今に繋がるのは確かだろう。
 誇らしいと思う気持ちがあり、無謀なと諌めたい気持ちがある。
 自信に満ち溢れた態度の通り、この鬼の刀の腕は土方や沖田、斉藤にも引けを取らない物があり、平隊士程度では勝てる筈もなかったのは明白。果敢に挑むのを悪いとは思わないが、相手の力量を見極めないのはただの無謀だ。
 刀を持つ者同士の戦いの結果は、大抵はどちらかの死だ。井上自身も死んだ部下達もそれを良く知っている。それでも許せない事もある。
「人間風情が、鬼に歯向かうのだ。殺されて当然だろう」
 平然と言い切る様に、ますます血が沸騰するような怒りを覚える。
 鬼がどれほど偉いと言うのだろうか。どれだけ偉かろうと、歯向かっただけで殺されて当然な訳はないし、人間風情と言われる云われもない。
 肩を震わす井上を横目に、風間は千鶴へと向き直る。
「前は思わぬ邪魔が入ったが、今日こそ一緒に来てもらうぞ」
 スッと差し出された手は、あくまでも自らの意思で風間についてきて当然と言わんばかりで。
「誰が貴方なんかと」
「ほう? ならばそこの人間が死んでも構わぬと?」
「!!」
 口元を愉悦に歪ませて、風間が哂う。
 ジロリと風間を睨み僅かばかりの逡巡の後、決意したように千鶴が顔を上げた。
 鬼の元へと行こうと一歩足を踏み出そうとした千鶴を制して、井上が前へと進み出る。
「……井上さん? 何を、するつもりなんですか……?」
「早く逃げなさい」
 庇うように前へ出た井上に、千鶴が怪訝そうな表情で問う。問われた事への返答をわざと無視して、小さく口元に笑みを浮かべた。
「そして、トシさんにこう伝えてくれ。……力不足で申し訳ない。最後まで共に在れなかった事を許して欲しい。こんな私を京まで一緒に連れて来てくれて……、最後の夢を見せてくれて、感謝してもしきれない……、とね」
 託した言葉は、井上の最後の言葉。
 託された遺言を、千鶴はどう言う思いで受け取っただろうか。井上が成さんとしている事を感じ取って、不安そうな表情を浮かべている。
 井上の力量では、あの鬼には勝てない。二人で共に土方の待つ場所まで戻る事は出来ない。ならば、井上に出来る事は一つだ。ただ、時間を稼ぐだけ。
 今、井上がすべき事は千鶴を逃がす事だ。
 土方から頼まれたと言う事もある。それを差し置いても、手が父に似て温かいと言った優しい少女の為にも、千鶴をこんな所で死なす事も、鬼の手に渡す事も出来ない。
「この人が狙ってるのは私なんです。私が行けば、井上さんは助かりますから。だから……お願い、井上さん。死に急ごうとしないで……」
 追いすがるように千鶴が叫ぶ。
 自らを囮にしようとする千鶴に、井上が苦笑いを浮かべた。
 こんな時でも、自分より他人の命を優先しようとする優しい少女。そんな千鶴を放って、井上が逃げれる訳がない。
「……やれやれ、女を盾にして逃げろっていうのかい? そりゃ、武士の風上にもおけんだろう。それにな……、子供を守って死ぬのは、親の本望でもある。親ってのは子供より先に死ぬもんだからな」
「っ……!」
 短く息を呑む気配がする。
 千鶴に背を向けた井上が、鞘から刀を引き抜いた。真っ直ぐに風間を見据えて、構える。
「今生の別れは済んだか。では、先程の言葉がどれほどのものか……試させてもらうとしよう」
 ゆるりと、嘲笑うような笑みを口元に浮かべて、悠然と風間が佇む。腰に帯びた刀を抜いて構える事すらしない。
 力強く地面を踏み締めて、井上が走りだした。勢いよく薙がれる刀が狙うのは、人体の急所でもある首筋。
 土方や沖田には遠く及ばないが、井上もそれなりの力量を持つ。薙がれた刀は的確に急所を狙っていて、その一刀で確実に相手の命を断てる。だが、今回は相手が悪すぎる。敵対しているのは井上を遥かに上回る力量の持ち主だ。技でも切れでも敵わない。
 最小限の動きで難なく井上の刀を避けた風間が、ようやく抜刀する。鞘から解き放たれた刀はそのままがら空きとなった井上の腹部へと納まってゆく。
「ぐぶっ!!」
 短い埋めき声と共に口から血が零れ落ちる。切られた腹部は流れ出る血で染まり、鮮やかな浅葱色の羽織も今や血で汚れてどす黒い。
 その場に膝をついた井上を、冷やかな視線で風間が見下ろして、囁く。
「どうした? 先程、俺が殺したのはお前の部下なのだろう? 仇を討ちたくはないのか? それとも、お前にとって部下とはそれほどのものだったのか?」
 挑発するように、愉快そうに囁かれた言葉に、井上が目を見開いて顔を上げた。立ち上がると再び刀を構えて、走り出す。それを迎え撃つ風間は酷くゆっくりと歩を進める。
 そして。
 井上と風間がすれ違った瞬間に、井上の身体からは夥しい量の血が噴き出す。風間がいつ刀を振るったのかすらわからない。
「ふむ。済まんな、人間相手はどうも加減が難しいようだ」
 酷薄な笑顔を湛えたまま、風間が告げる。
「何をしてる!! 早く逃げんか!」
 井上一人では千鶴を守り切れない。
 だから、早く安全な場所へ――同じ夢を見た頼りになる人の元へと逃げて欲しい。それだけが最後の願い。“親”から“子”へと望む唯一の事。
 鬼気迫る勢いで恫喝された千鶴が踵を返そうと、体を起こす。
「……やれやれ、今まで戦った人間共の中で、お前が一番脆弱だったぞ」
 鬼が井上を哂う。
 哂うなら哂えばいい。幹部の中でも弱い部類に入る事は井上自身が良く知っているし、理解もしている。今更、それを哂われた所で何ともない。
 井上が敵わなくとも、井上と同じ志を持つ者がいつか必ず、この鬼を倒す日が来る。それで、いい。
 ゆったりとした動作で風間が刀を振り上げてゆくのが、井上の視界に移る。
「い……や……いや…………やめて……やめてっ――――!!」
 悲痛な響きを纏って、声が響く。
 風を切って迫る白刃を、何処か静かな気持ちで井上は見つめる。己の死が迫ってなお、頭を過るのは未だこの場に残ったままの千鶴の事で。
 あぁ、どうか。
 心優しい少女が、自分の所為でと己を責めないように、と。
 それを願う傍らで白刃は体へと吸い込まれるように降りてきて、意識は黒く塗りつぶされて途切れて消えた。


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