時は移ろい、花はまた咲く
土方がその生を終えたのは、春を過ぎた初夏だった。
光を透かす新緑が目に鮮やかで、通りすぎてゆく風が薫る心地よい季節に、人知れず静かに土方は風に還った。
その時の事はよく覚えている。
愛しくて、大好きだった人。
共にあった日々は幸せで、愛しくて、かけがえないもので。だからこそ、声が聞こえなくなる事が、触れあえない事が、傍にいない事が、共に過ごせない事が、悲しくて。一人取り残される事が辛くて寂しくて。
あの時から、千鶴の世界は鮮やかさを失った。
晴れやかな空の色も、色鮮やかな新緑の色も、柔らかな花の色も、瞳に映る事はなく。ただ咲いて、散りゆくばかり。
土方がいないだけで、こんなにも世界が精彩を欠くとは思ってもいなかった。土方がいなくても、大丈夫だと思っていたのに。一人になる事には慣れていると思っていたのに。
蘭医でもある父・網道は度々家を空ける事があり、母も他の家人もいない家に千鶴は一人取り残される事が多かった。一人で寝起きし、食事の支度をし、家事を行った。たった一人、優しい父の帰りを待つ日々を何度送った事だろう。無事に帰ってくるのか不安は尽きなかった。もしもを考えて、恐ろしくなった事も数えきれない。その時でさえ、世界が単調に見えた事なんてなかったのに。
自分が思った以上に、土方の事が好きだった事を今更ながらに知る。
厳しくて怖くて、でも優しかった。気持ちが通じ合った後は、ただひたすらに穏やかに千鶴を見守り、同じ時を過ごしてくれた人だった。
どうして、置いて逝かれたんだろう。
どうして、連れていってくれなかったのだろう。
父を亡くし、五年以上共に過ごした人達を亡くした。土方が亡くなれば、千鶴は一人、この世界に取り残されるのがわかっていたのに、何故。
土方が灰となったあの日に本当は千鶴も共に灰になって一緒に逝ってしまいたかった。だけど、千鶴は羅刹ではないから、共に何も残さず逝く事は無理で。
ならば。
今、自ら命を断てば、土方の元へと逝けるのだろうか?
何気なく頭を過った考えが、甘い甘い言葉を囁く。
命の大切さを知っている。たくさんの人の命の犠牲の下、生かされている事を知っている。けれど、囁かれる甘言は逆らい難い魅力に満ち溢れていて、振り切れない。
簡単な事だ。
ただ、心臓を突くか、首を切ればいい。鬼としての回復力を持つ千鶴もそうすれば何の苦労もなく、命はこの世からあの世へと逝ける。それだけで、千鶴は最愛の人達に再び、会えるのだ。
何を躊躇う事があるのだろうか。
痛いのはほんの一瞬。それさえ過ぎ去ってしまえば、二度と別たれる事のない場所で、会えるのに。
それは十分に分かっていたけれど、それでも千鶴の決心を遮り鈍らせるのは死ぬ寸前の土方の表情だ。
酷く満ち足りた表情で笑って逝った土方の姿が千鶴の頭を過っては、命を絶つ決心を遮り、鈍らせる――まるで千鶴が命を絶とうとするのを邪魔するかのように。
「……どう……して」
知らず口をついて出た言葉が、非難する色を帯びる。
どうして、死ぬ間際の笑顔が頭を過って邪魔するのだろう。命さえ断てば、また会えるのに。触れ合い、会話を交わし、傍にいる事が出来るのに。
どうして邪魔をするのだろう。
他の誰でもない、土方自身が何故、千鶴を躊躇わせるのだろう。土方に会って、触れて、話がしたいとこんなにも切望しているのに。
どうして、浮かぶ笑顔に躊躇って、手は刃物に伸びないのだろう。
「どう……して…………どうして、どうして………………」
非難の色を帯びていた言葉は、やがてその色を弱めていく。代わりに見え隠れするのは、伸ばせない手への戸惑いと困惑だ。
長年帯びていた小太刀、台所には包丁の類、そして、土方の刀――――命を絶つ道具は数多くある。立ちあがって移動すれば、ものの数分もかからない場所に。
立ちあがって、移動して、刃物を手に取る。たったそれだけの動作なのに、千鶴の足がその場から立ち上がる事はなく、刃物をこの手に握る事すらない。
心は土方に会うのを願って望んでいるのに、体がそれを裏切る。まるで何か別の力が働いているように、体は動かず千鶴は自分の命を絶つ事が出来ない。
鮮やかさを欠いた世界で、いつ来ると知れない終わりを待って生きていかないといけないのだろうか。これからの長い間をずっと。たった一人で、全てに耐えて生きていけるほど、千鶴は強くない。
逢いたい。
土方に逢いたい。
刹那でも、幻でも、夢でも、何でもいい。ただ、土方に逢いたい。心はそればかりを何度も、飽きるほどに願い続けるばかりで。
そうやって、土方が還ったあの日からどれほどの時間が経っただろうか。
時の流れの感覚などなく、あれからどれだけの時間が流れたかを千鶴は知らない。既に何年も経ったかも知れないし、半年も経っていなかも知れない。
ただ終わる日を待って過ごすだけの毎日。
生きていると言うには程遠く、まるで忘れ去られたカラクリ人形のようにただ、命を繋ぐ為の動作を淡々と繰り返す。
不意にフワリと、花の匂いを伴った緩やかな風が髪を揺らして通り過ぎた。
風が運んだ春の薫りに視線が窓の外へと向かい、目を見張った。庭狭しと咲き誇る桜の姿に、目を奪われる。
「あ……」
どんな時でも、時間だけは流れる。
時は留まる事なく移ろう事を続け、季節も巡り続け、散った花は蕾をつけ、それを綻ばせて花を開かせる。
土方が植えた桜が、今年も咲いた。
土方に、千鶴に、新選組の皆に似ていると称されたその花が、その生き様を写し取ったかのように凛と咲き誇り、風にその枝を揺らす。その度に、はらりはらりと花吹雪が舞う。
“なら……皆が、いるみたいですね”
そう言ったのは、一年前の千鶴自身だ。
庭に植えられた桜の木々に、かつての仲間達の姿を……土方の姿を重ねて言った言葉だ。
「……歳三……さん」
どうして、忘れていたんだろうか。
確かに土方は死んだけれども、それでも、土方の想いも痕跡も未だ色濃くアチラコチラに残っている事を。
一人だけど、一人ではないのだ。
姿は見えない、声は聞こえない、触れあう事も出来ない。けれども、想いだけはどんな時でも千鶴の傍にある。何時だって、千鶴のすぐ傍にあるのだ。
その事を、どうして忘れていたのだろう。
ただ失った悲しみだけを胸に抱いて嘆くだけで。どうして、置いて逝く人の気持ちを汲めなかったのだろうか。
置いていかれて寂しくて悲しかった。どうして連れていってくれなかったのかと嘆いた。けれど、置いて逝く方も辛かっただろう。厳しそうに見えて誰よりも優しい土方が置いて逝く事を気にしない筈がないのに。
何故、そこまで思い至らなかったのだろう。
失った悲しみで思考はあの瞬間で止まってしまって、後ろに戻る事はないが、前にも進まない……停滞して、ずっと暗闇の中を彷徨っていた。
だけど、きっと、もう大丈夫。
散った花が芽を息吹かせ、蕾をつけ、また花開いて巡り続けるように。散った命も、残された想いも巡って回り続ける物だ。
ずっと、ずっと。
土方はいなくとも、千鶴の為にと残した想いは今、千鶴と共に此処にあって、共に巡っていくのだ。長い生を終えても、ずっと。
唯一の家族で、最愛の人で、大切な人。それは今までも、これからもどれだけ時が流れようとも、絶対に変わらない。
一人、残された事は寂しくて悲しいけれど、決して自分は不幸せなどではなかった。その逆で幸せだった。
何時か忘れ去られてしまうとしても、千鶴だけは知っている。絶対に忘れる事はない。誰が何と言おうとも、千鶴は幸せだったのだ。土方と共に在った日々全てが。
長い暗闇が晴れて、世界が色を取り戻して鮮やかに輝く。
引き結ばれていた口元が、忘れていた笑みを取り戻す。何処か泣きそうにも見えるその笑みは、それでも晴れやかに面を彩った。