据え膳食わぬは男の……?
 誰が酒宴をやろうと言いだしたのかを、土方は既に覚えていない。
 いつも通り、永倉・原田・藤堂の三人組だったかも知れないし、近藤だったかも知れない。とにかく、誰かが飲もうと言ったのは確かで、その結果、変わらぬ面子が変わらぬ調子でいつも通りに騒いでいる。
 そこまでなら常と変らない光景で、何の問題もなかったのだ。
 土方の機嫌が降下する事はなかっただろうし、酒宴の開催に反対しておくのだったと後悔する事もなかっただろう。起こってしまった以上、全ては今更でどうしようもないのだが。
 手にした杯を傾けながら、土方が深い溜め息を吐いた。呆れと諦めとその他色々な感情を含んだ溜め息は重苦しく場に落ちて消えゆく。
「いやだなぁ、土方さん。辛気臭い溜め息なんて吐いて。せっかくの酒が不味くなるじゃないですか」
「…………」
「こんな席でまで眉間にシワ寄せる必要はないでしょう。何怒ってるんですか?」
「……テメェの所為だろうが、総司」
 地を這う低い声と共に、見る者を凍てつかせる鋭い視線が沖田を睨みつける。
「土方さんの機嫌の悪さを人の所為にしないで下さいよ」
「テメェが千鶴に酒飲ませたのが原因だろーが!!」
 気の短い土方がキレた。
 悪びれた様子のない沖田に示すように勢いよく指さした先には、千鶴の姿。
 その頬は朱色に染まり、明るい色の生き生きとした瞳はトロンと霞がかって何処かぼんやりしている。手には空になった杯。
 何処から、誰が見てもそれは酔いが回っている状態だ。
「あはは、千鶴ちゃん、顔真っ赤だねー。杯一杯くらいで酔うなんて弱いなぁ」
「あはは、じゃねぇんだよ。どう見たって、弱そうだろうが!! 飲ましてんじゃねぇ!」
「あ、土方さん。見かけで判断するのよくないと思いますよ。自分が良い例じゃないですか」
「テ・メ・ェ・は! 減らず口を!」
 下ろしていた腰を浮かしながら、土方が傍らに置いた刀に手を伸ばす。対する沖田も傍らに置いていた刀に手を伸ばすものだから、慌てたのは残った面子だ。
 この二人が刀を持ち出して喧嘩を始めた日には、間違いなく流血沙汰。しかも、どちらかが死ぬまで続ける可能性大だ。
「まぁまぁ、歳! 取り敢えず、落ち着け!」
「近藤さん」
「済んだ事を今更どうこう言ったって始まらんだろう。とにかく、雪村君を何処か休める場所にでも連れていってやらんか。な?」
 見る者を安心させる大らかな笑みで近藤が笑う。
「僕は近藤さんの意見に賛成です。土方さん、早く千鶴ちゃんを部屋に連れてってあげて下さいよ」
 手にしていた刀を元通り傍らに置いて、沖田がシレッと土方に声をかける。思わず荒げそうになった声をどうにか留めて、土方が立ち上がった。
 未だぼんやりと座ったままの千鶴の元へと歩みよってゆく。
「おい、千鶴」
「あー、土方さんだぁ〜。相変わらず眉間にシワがありますねー」
 酒が入った為に舌足らずな喋り方の千鶴が土方を見上げて、フワリと笑う。ただし、言っている事は微妙に失礼な事だ。
「悪かったな。眉間にシワが寄ってて。おら、立て。部屋戻んぞ」
 腕を掴んで立たせようとするものの、千鶴はいやいやと頭を横に振る。
「えー」
「えーじゃねぇんだよ、酔っ払い」
「酔っ払いなんかじゃないですよ! ちょっと頭はフワフワしますけど、酔ってませんー」
「……酔っ払いは口揃えてそう言うんだよ」
「だから酔っ払いじゃありませんー」
 飛び交う会話は同じ所を行ったり来たりと繰り返すばかりで何の進展もない。
「酔っ払った千鶴って最強だな。土方さんに口答えしまくってるし」
「後で知ったら青ざめてそうだけどな……」
 遠めに二人のやりとりを見守りつつ、藤堂と原田が盃を傾け続ける。
 普段の千鶴なら決してしないであろう口答えは見ていて面白く、微笑ましくさえある。あとで本人が知ったら血の気が引くだろう事は明白だが。
「あー、めんどくせぇ!!」
「きゃあ!?」
 気の短い土方が同じ所をグルグルと回る会話に長々と付き合う筈もなく。短い舌打ちを零すと、颯爽と千鶴の膝裏に手を差し入れて掬いあげる。
「おい、歳。無理矢理は……」
「何言ってんだ、近藤さん。あの調子じゃいつまで経っても部屋帰んねぇよ、こいつ」
 心配そうな顔で伺ってくる近藤にキッパリと言いきって、部屋の外へと向かっていった。
「…………送り狼にならなきゃいいですねぇ」
 ポツリと漏らされた言葉は場の喧騒に紛れて、誰の耳にも届かず消えた。

 ◆

 押入れから出した布団を部屋の真ん中に敷いて、土方が千鶴を振り返った。
 入口直ぐの所に座らせておいた千鶴はゆったりとした動作で前後に船を漕ぎつつある。
 どのくらいの量飲んだのかはわからないが、ほぼ飲まない人間が急に酒を嗜んだのだ。ここらが限界だったろう。
「おい、千鶴。寝るんなら布団入って寝やがれ」
「…………ん……はい」
 眠そうに瞼を擦りながら、布団へと近づいてゆく。結わいていた紐を解くと、漆黒の髪がハラリと背中に流れる。
「ゆっくり休め。どうせ、明日は二日酔いだろうしな」
 楽しそうな笑みを浮かべて土方が立ち去ろうとする。が、ピンと袴の裾に引っ張られている感触を感じて、下へと視線を落とした。
 後へと延びた裾の先には、白い手。シッカリと土方の袴を掴んでいて、離す気配はない。
「……手を放せ」
「や」
「千鶴」
「やー。土方さん…………一緒に寝て?」
「……………………は?」
 思いがけない千鶴の言葉に、土方が間の抜けた声を上げた。
 呟かれた言葉の真意を探るべく、千鶴に視線を向ければ千鶴の視線とバッチリ目があう。
 酒で潤んだ瞳、上気した頬、流れる黒髪に少し乱れた襟元。
 まるで誰かがお膳立てしたように整えられた状況に、鉄壁の理性がグラグラと揺らぐのを感じる。
 土方とて健全な成人男性。最近は随分と御無沙汰してはいるが、そもそも色事で名を馳せた事もあるのだ。女を抱きたくない訳がなく――ましてやそれが、憎からず想っている相手なら尚更で。
 それでも、遊女を抱くような気軽な気持ちで千鶴を抱く訳にもいかない。
「……千鶴、離せ」
「や、です。土方さんは……私じゃ嫌ですか?」
 土方の心、千鶴は知らず。
 ウルウルと潤んだ瞳で、上目づかいに見上げられては千鶴への配慮が効力を無くしてしまいそうだ。
 むしろ、私を食べて下さいと言う裏の声が聞こえてくる気がするのは気の所為だろうか。否、気の所為ではないだろう。
 そんなに酒を嗜んだつもりはなかったが土方が思ったよりも飲んでいたのかも知れない。
 何処か麻痺した思考が千鶴の態度に変な判断を下して、伸ばした手がゆっくりと千鶴を褥へと押し倒してゆく。
 ほのかに灯る行燈の光が障子に影を映しだし、その影が段々と距離を縮め、重なりあいそうになった、その瞬間。
 チャキと帯びたままだった刀の鯉口を切り、勢いよく障子へと突き立てる。途端、向こうで青ざめたような動揺が伝わってくる。
「……テメェら、俺が気付いてねぇとでも思ってたのか? 平助ぇ!!!!!」
 地の底から響くドスの効いた低い声が、大気を震わす。
「何で名指し!? お……俺は反対したんだって!! でも、しんぱっつあんと総司が!!」
「ばっ……!! 俺の名前出すんじゃねーよ、平助」
「つーか、逃げるのが先決だと思うんだがよ、俺は」
 言い争う二人の後ろから、何処か疲れたような突っ込みを入れる原田の声がする。
「テメェらぁ!!!!!!! そこ動くんじゃねぇぞ!!」
 勢いよく開けられた障子が抗議の悲鳴を上げる。しかし、その時点で既に外にいた面子は脱兎の如く逃げ去った後で。
 チッと派手な舌打ちだけを残して、開け放した障子を締め切る。
 覗いていた事に盛大な文句はあれど、それで助かったのも確かで。あのまま邪魔が入らなければ、危うく、大間違いを犯す所だったと、小さく苦笑を零す。
 未だ見上げてくる千鶴の目を土方の無骨な掌が覆い隠す。
「……土方さん?」
「酔っ払いは寝やがれ」
「……私じゃダメですか?」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。そんな言葉は心底惚れた奴に言ってやれ。ほら、とっとと寝ちまえ」
「………………だから、言ったのに」
 目を覆い隠されたまま、千鶴が小さく何処か泣きそうな声音で呟いた。
 それを意図的に無視して、ただ黙って千鶴の目を塞ぎ続ける。酒精が入った千鶴が眠りに落ちるまでそう大した時間はかからず、完全に寝入った事を確認して、覆っていた手を取り払った。
 敷いてあった布団に眠りに落ちた千鶴を横たえて、布団をかけてやる。
「…………そうだとしても、俺だけは止めとけ」
 零れた言葉は誰の耳に届く事もなく、穏やかな寝息に紛れて消える。
 千鶴の気持ちに気付いていない訳ではない。元々、感情を隠したりするのが不得手な千鶴はとてつもなくわかりやすい。日々の態度を見ていれば、自惚れでも何でもなくすぐにわかった。けれど、土方に応える事は決してないだろう。例え、同じように想っているとしても。
 よく、据え膳食わぬは男の恥とはよく言うが、場合によっては据え膳を食った方が恥になるのではないだろうか、と土方は思う。
 特に今のようにいつの日か、手放す事がわかっている場合は。
 刀に命を賭している土方は、明日をも知れない命だ。いつか、置いて先に逝ってしまう事がわかっているのに、寄せられる好意に応える訳にはいかない。
 新選組に関わらない場所で幸せになって欲しいと願うからこそ、誤魔化して有耶無耶にしてしまう事だってある。
 何処か幸せそうに眠る千鶴を見下ろして、小さく溜め息を吐いた。
 千鶴を新選組で預かって既に三年が経とうとしている。
 幼かった風貌の少女も早いもので十八。普通の娘なら嫁いでもおかしくない年齢だ。
 男所帯で生活していた所為か、匂い立つ程の色香はないが、それでも時折、ハッとさせられる瞬間がある。
 蛹が羽化して蝶になるように。
 蕾が綻んで花開くように。
 少女から女へと、千鶴は少しずつだが確かに変わりつつある。それは本来は喜ばしい事だ。だが、新選組に身を置く上ではその逆。
 男装姿で誤魔化し続けるのもそろそろ限界か。このままいけば、いずれ千鶴の正体は平隊士にも知れ渡る。その前に、千鶴をどうするかを決めなければならないだろう。そして、それはそう遠くない未来の話だ。
 眠る千鶴の艶やかな黒髪を一房取って、口付ける。
 この先、待ちうけている未来が千鶴にとってどうなるかなんてわかる筈がなくて。ただ、この少女が何時でも笑っていられる未来になればいいと願うばかり。
 優しく不器用な鬼に見守られながら、静かな夜が更けていった。

 ◆

「うぅ……頭が痛い……」
 フラフラと危なっかしい足取りで千鶴が廊下を進む。
 まるで鈍器か何かで殴られているように頭の中がガンガンと痛んで、思考が上手く巡らない。
 昨日は誰が言い出したかわからない飲みの日で、沖田に渡された杯に口をつけた後の記憶が綺麗サッパリ抜け落ちていて、自分が何時部屋に戻ったのかも、布団を敷いたのかも全く記憶にない。
「やぁ、千鶴ちゃん」
「……沖田さん」
「すごい顔してこっち見ないでくれる?」
「昨日、沖田さんから杯を渡された後の記憶が全然ないんですけど……」
「そりゃあまぁ、酒渡したからね。まさか杯一杯であんなに酔っぱらうなんて思ってもなかったな〜」
 悪びれた様子もなく、沖田がニコニコと話す。
「千鶴ちゃん」
「……はい?」
「昨日、酔った勢いで土方さんに迫ったんだよ。知ってる?」
「…………………………え?」
 悪意が読み取れる笑みで告げられた言葉に、千鶴の思考回路が固まる。
 固まった思考回路がゆっくりと動き始め、沖田の言葉を咀嚼して意味を理解するまで要した時間は約五分。
「き…………きゃあぁぁぁぁっっ!!!!」
 耳を劈くような叫び声が屯所に響き渡り、ドタバタと走り去るような足音が続く。
 それらに遅れる事、数分。
「総司ぃぃぃぃぃぃ!!!!!!!」
 新選組が誇る鬼副長の怒声が、今日も今日とて屯所に響き渡った。
 どうやら今日も、新選組は平和そうである。


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