散り逝く花の心残り
 結びの言葉を記すと、迷いなく走らせていた筆を紙から上げた。文字を記した墨が乾いたのを確認してから丁寧に折りたたむ。
 作業の終わる時間を見計らうのに長けた千鶴がお茶とお茶請けを持って姿を現したのは、やはり全ての作業が終わった頃で。多少の誤差はあれども、その正確性は称賛に値するだろう。
「相変わらず、正確だな……」
「そうですか?」
 小さく首を傾げながら、千鶴がお茶を差し出す。
「悪いな」
 見る者を惹きつける柔らかで艶やかな笑みを浮かべて、土方が差し出された湯呑みを受け取る。
「!!」
 新選組を率いていた時代にはほとんど見かける事のなかったその笑顔を千鶴は未だ見慣れない。
「……その笑顔は反則だと思うんです」
「何だ、急に」
 受け取ったお茶に口をつけながら、土方が千鶴を窺う。
 窺った先、千鶴の頬が微かにに朱に色付いているのを見止めて、土方がもう一度、艶やかな笑みを浮かべた。
「慣れねぇなぁ、お前。笑顔くらい夜毎、飽きるくらい見てんだろ?」
「〜〜〜〜っ!! し、知りませんっ!!」
 土方の言葉に顔を赤く染め上げた千鶴が走り去ってゆく。動揺しているのが丸分かりな足音に土方が声を立てて笑った。
 気持ちを通じ合わせ、夫婦になってもうそろそろ一年が過ぎる頃だ。
 無論、清い仲で一年を過ごした訳もなく、夫婦の営みも数えきれないくらい行っているのに、いつまで経っても行為に慣れない千鶴の反応は初々しいままで。
「いつになったら慣れるんだろうなぁ、あいつは」
 千鶴のその様子が微笑ましくて、自然と口元に笑みが浮かぶ。
 何気ない些細な事を幸せだと思える日々。まるで夢のような今を、あの頃は露ほどにも考えた事はなかった。
 刀を振るい、将軍の――否、近藤の為に命を散らすものだと思っていた昔。そうならなかったのはひとえに千鶴の存在が大きいのは否定のしようがない。
 行方を晦ました蘭医の娘。
 いないより幾らかはマシだろうと身柄を預かった少女。いつでも切って捨てられると思っていた少女が新選組に馴染んで来たのはいつからだったろうか。
 いつ頃、千鶴が新選組に馴染んだかを土方は全く覚えていない。ただ境遇を哀れに思ったのか、やたらと幹部陣が千鶴に構っていた記憶はある。
 例えば、出かけた際に買って帰る土産だとか、屯所で不便がないよう便宜を図るだとか、ひっそりと気にかけておくだとか。
 どれも些細ではあるが、絆されていなければやろうとは思わないだろう事ばかり。こればかりは千鶴の素直で隠し事が出来ない真っ直ぐな性質が幸いしたと言ってもよかっただろう。
 千鶴と共にあった長いようで短い歳月は、瞬く間に過ぎ去り、その間は決して平坦で穏やかな日々ではなかった。
 仲間の離脱、死、羅刹化、天皇の崩御、鳥羽伏見に端を発する戊辰戦争……新選組隊内外で様々な事があった。古くからの仲間も、それ以外の仲間も多くを失った。
 全てが終結を迎えるまでに、一体何人の仲間の死を迎えたかわからない。
 千鶴にはつらい現実だっただろう。
 長い時間を過ごした仲間や、唯一の身内を亡くす日々……仲間の死に表情を歪めながらも、それでも離れることなくついてきた。
 新選組と行動を共にする必要もないのに行動を共にし、ただひたすらに土方を支え続けた少女。
 仲間を失い、近藤を失い、信じ貫いてきた道すらも見失いかけた土方の傍にいた。生きて幸せになって欲しいと突き放して置いていっても、追いかけてきた。
 馬鹿だと思う反面、その存在に救われていた。
 千鶴の存在が、土方に武士として散るのではなく生き残る事を選ばせた。
 だからこそ、なのだろう。
 土方がいなくなった以後の千鶴の事が酷く気にかかってしまうのは。
 変若水を煽り、羅刹となり、数えきれないほどその力の恩恵にあやかってきた。
 文字通り、命を削りながら刀を振るい続けてきたこの身体に、あとどれほどの時間が残っているのだろうか。
 残った僅かな時間でどれだけ、千鶴に与えられた物を返せるのだろうか。
 一人、取り残される千鶴に土方は一体、何をしてやれるのだろうか。
 幾ら考えた所で、そう簡単に思いつく筈もなく。
 小さく溜め息を零すと、先ほど書きあげたばかりの書状を持って立ち上がる。
「千鶴」
「はい?」
「ちょっと出かけるが、お前も来るか?」
「出かけるって……どちらまで?」
「ちょっとこれ出しにな」
 手にした書状を千鶴にも見えるように持ち上げる。
「ちょうど良かった。買い足そうと思ってた物があったんです」
「……荷物持ちかよ、俺は」
 ポンと手を打って笑う千鶴の姿に、土方が小さく息を吐く。
 散歩がてらと思って声をかけたのだが、思わぬ藪蛇だったようだ。まぁ、偶にはこんな日があってもいいだろうと思い直して、小さく口端に笑みを浮かべる。
「んじゃ、行くか」
「はい」
 後をついて歩く千鶴に合わせて、歩みを緩める。
「あ、見て下さい。あの辺り、きっと桜の木ですよね」
 道の片隅に林立する木々を指差して千鶴がふわりと笑う。指さす先に目をやれば、確かに桜の木と思しき木々が生えている。
 今の時期が春ではない事が悔やまれるくらいの木の数だ。きっと春には爛漫と咲き誇り、艶やかな花景色が目に出来るだろう。
「春は綺麗でしょうね」
「そうだろうな」
 其処で花を見ればきっと、心が弾む。
 志を共にした仲間達がいれば、酒が持ち出されて花を肴に宴会を始めるだろう。
 もう二度と見る事の出来ない光景を思いだして土方が桜並木から視線を外した。ふと、見降ろした先では千鶴も同じような表情を浮かべている。
 きっと同じ事を思い出したのだろう。
 それを懐かしいと思うくらいに、千鶴は土方達と共に時間を過ごしてきたのだから。
「……千鶴」
「はい?」
「桜は好きか?」
「……好きです。だって、土方さんや皆の花じゃないですか」
「……そうか」
 フワリと千鶴が笑う。その笑みを正面から受け止めて、土方も微かに笑った。
「何ですか、急に」
「ちょっとな。んで、俺はこれを渡してくるがお前、先に買い物してるか?」
「一緒に行きます。急がなくても買い物は逃げませんから」
「まぁ……それもそうか」
 ちょうど賑わう時間帯と被ったのか人通りの多い通りを抜けて、手にした書状を金銭と共に手渡す。
「何方に出されたんです?」
「お前も知ってる奴さ」
 書状の相手を問いかけてきた千鶴に、土方が笑みを向ける。土方の言葉に千鶴は微かに眉根を寄せて考え込む。
「私も知ってる……あ、島田さんですか」
「違ぇよ」
「え」
 最後まで土方の下で戦っていた部下への書状だと思ったのだが、そうではなかったらしい。では誰だと視線を向けてみても、土方に答える気は一切ないらしく知らぬ顔をしている。
「まぁ、着いて向こうが動いてからのお楽しみだな」
「じゃあ、その時を楽しみにしてます」
「そうしろ、そうしろ。さて、買い物して帰るか」
「はい」
 千鶴の手を土方の手が掴む。
 瞬間、驚いたように目を瞬かせた千鶴も小さく笑って握り返してくる。
 ――手を繋いで、共に歩く。
 そんな些細な事すらやがて出来なくなるだろう。それは遠い未来の話ではない。
 時は耐えず流れゆくばかりで、留まらない。刻一刻と残り少ない命は削られ、やがて灯が消えて還る日が来るだろう。
 いつか来るその時に、千鶴が寂しくないように。
 一人、この地に残される少女へのたくさんの想いと願いを込めて、凛と咲き誇り散りゆく姿が仲間達に似た桜を植えよう。
 例え、涙に暮れ続ける日々を送ったとしてもいつか、笑える日がくるように。それらが花開き、寂しさと孤独と悲しみを癒してくれる事を願いながら。
 微かな決意を胸に、通りを歩いてゆく。
 仲睦まじい二人の姿はやがて遠く見えなくなった。


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