暁待ちわびて
燦々と輝く太陽が姿を隠し、夜の帳が辺りを優しく包み込む。
人の気配も喧騒も絶えた深夜に漂う空気を何処か心地よく感じながら、山南はゆったりとした足取りで境内を歩く。
羅刹となり、表向きには死んだとされる山南は自由に外を歩くことを許されない。
それは羅刹が太陽の光に弱い事も理由にあったし、事情を知らぬ平隊士に混乱をもたらさない為でもあった。外を歩く事を禁ずる理由を重々理解はしていても、時折、酷く外を恋しいと思う事がある。
それは、そうだろう。
死んだように扱われていても、山南は本当に死んだ訳ではない。ただ、人と化け物の境界線が危うい存在になった、それだけなのだから。
ずっと室内に籠っていれば気が滅入る事もあるし、外の空気を吸いたいと思う事もある。それでも日中は山南にとって毒でしかないから、深夜を選んで人知れず外を歩く。無論、それを良い事だとは思っていない。
現に、幽霊が出ると噂になっているのは知っているし、その幽霊が山南の事を指しているのも知っている。山南が外を歩く事で屯所内に小さな波紋を及ぼしているのはわかっているのだ。
本当は死んでいないのに死人として扱われる日々。
変若水に手を出した事を間違ったとは思わない。欠けた力を取り戻す為に手を出した物。それによって取り戻したのは自由に動く腕と、武士としての矜持だ。だが、それど同時に【山南】と言う存在が一体【何】であるかがわからなくなると言う不安も得た。
極一部を除いた他の誰にも生きている事を知られていない今の状況を、果たして生きていると言っても良いのだろうか。胸の奥におさまる心臓は確かに脈打って山南が生きている事を告げているが、それすらも山南の気の所為のような気がしてくる。
変若水に手を出さなかったら、今こんな風に個について悩むことはなかったのだろうか。
(それはそれで、別の問題があった気もしますね……)
新選組の為に働きたい気持ちに反して動かない腕。それに焦燥して、周囲に当たり散らして、さぞや迷惑な事だろう。当たり散らしても何にもならない事をわかっていても、腕が動かないと言う事実は山南を不安に陥れて、不安からくる焦燥は周りへの刺々とした態度へと移り変わって、それは口を通して外に吐き出されるばかり。誰にとっても迷惑な事だとわかっていても、止める事は出来なかった。
沈んでゆくばかりの思考を溜め息に紛れさせて、外に吐き出す。
暗い境内から視線を上に上げれば、頭上には数えきれない程の星が輝いているのが目に入った。悩む事すらも馬鹿馬鹿しくなる程に広く、果てなく広がる空を見上げて山南が淡く口端に笑みを刻む。
悩んでも、迷っても――例え、後悔したとしても過ぎ去った後では何の意味も持たない。
変若水を飲んで、山南は羅刹になった。それは誰にも変えようのない事実だ。ならば、羅刹になった山南にしか出来ない事をやるしかない。その先に何が待ち受けていたとしても。
「……おや」
黒く塗りつぶされた空で瞬く星に視線を向けながらも、再び思考の渦に沈んでいた山南が、視線を空から外した。誰の気配もしない……人が寝静まった深夜だと言うのに、動く気配がある。
「……これは雪村君……ですかね」
山南の良く知った仲間達ではないのは一目瞭然。
新選組幹部を務めあげる彼らが気配をそう易々と詠ませる筈がない。例え、屯所であろうとも半ば無意識に近いもので忍んでしまうのだから。だが、身柄を預かる娘はそうではない。
彼女は当たり前だが、武士ではない。
ただ網道を探す切り札として身柄を預かっているに過ぎないただの娘。否、ただのと称するには若干、語弊があるか。ここ最近続く、鬼を名乗る者達の襲撃目的はあの少女なのだから、ただの娘ではないのだろう。だが、山南の目にはほんの少し、真面目でお人好しで優しすぎる運の悪いただの年幼い娘にしか見えない。
そんな少女が、こんな深夜に何をしているのだろうか。
新選組を束ねる鬼の副長に勝手に出歩くなと、釘を刺されていただろう。深夜に歩いていた事がばれれば、説教だけで済まない可能性もある。
小さな溜息を一つ、吐きだして歩きだす。境内を抜けて、屯所として使っている建物へと戻り、気配を辿って淀みない足取りで進んでゆく。
ほどなくして廊下に佇んだまま考え込む少女の後ろ姿を見つけて、出来るだけ柔らかい声音で声をかけた。
「雪村君。こんな夜更けに、どこへ行かれるのです?」
「ひゃっ!?」
突然かけられた声に驚いて微かな悲鳴を上げて、千鶴が振り向く。そんな少女の姿に、山南が苦笑を零した。