花月の雪
 今年もまた、桜が爛漫と蕾を綻ばせて咲き誇る。
 淡く柔らかい薄桃の花弁は、はらりはらりと舞いながら地面へと降り注ぎ、風に遊ばれるままに幾千もの花弁が宙を舞う様は雪のようで美しい。
「おい。そんな所で何してやがる」
「歳三さん」
 最初は怖いとばかり思っていた人。
 向ける感情が恐怖から信頼、信頼から愛情へと変わったのは一体、いつ頃だったろうか。
 気付けば、ただひたすらにその背を追い、その途中で幾人もの大切な人達の死を看取った。幸せになれと突き放されて、土方の傍以外に幸せはないと海をも渡った。たくさんの出会いと別れを経て、千鶴は今ここにいる。
 二人、慎ましくも幸せに暮らしている。
 全てが終わってからまだ、一年しか経っていないと言うのに随分昔の事のように思えて、千鶴が小さく笑った。
「何笑ってやがるんだ、お前は」
 千鶴の佇む位置までやってきた土方が、呆れたように呟く。
 千鶴より頭一つ高い場所にある顔を見上げて笑みかければ、土方もまた柔らかくも艶のある笑みを口端に刻んだ。
「で? 何を笑ってやがったんだ?」
「少し……昔の事を思い出しまして……春だからですかね」
 しつこく追及する土方に、ありのままに答えて頭上を見上げる。
 凛と咲き、潔く散り逝く桜花。
 その様は隣に佇む土方や、戦いの最中に命を散らしていった仲間達によく似ている。
 己の誠を貫き、死すら厭わず武士として潔く時代を駆け抜けていった彼らによく似た花。だから、桜が好きなのかも知れない。皆と一緒にいる気分になれるから。
「――今年も見事に咲いたな」
「……はい」
 桜を見上げて土方が感慨深そうに呟く。
 土方もまた、千鶴と同じように仲間達を思い出しているのかも知れない。何せ、付き合いはそれこそ千鶴と比較にならないほどに長いのだから。
「……今度、酒でも買ってくるか」
「喜びますよ、きっと」
 フワリと笑う。
 皆、騒ぐ事が好きだったから喜ぶだろう。
「んじゃ、酒を買いに行くのはまた今度にするとして。ついでに俺らも花見するか」
「え?」
「せっかく満開なんだ。しないと桜に悪いだろうが……まぁ、酒はねぇから茶になるがな」
「歳三さんは元々、あまりお酒を嗜まないじゃないですか」
 クスクスと笑いながら、千鶴が土方を見上げる。
 昔馴染みの親しい面々と極一部にしか知られてない事ではあるが、実は土方は酒に強くない。全く飲めない訳ではないが、酒量は微々たるものだ。
「じゃあ、お茶を淹れてきますね。頂き物のお団子もありますから、それも持ってきます」
「おう、頼んだぜ。お前の茶は美味いからな」
「褒めてもこれ以上、何もでませんよ」
 踵を返して、家へと向かってゆく。
 何もでないとは言ったものの、褒められて悪い気はしない。いつもより、丁寧に美味しいお茶を淹れようと思いながら、ふと後ろを振り返った。
「……っ」
 桜の木の下で佇み背を向ける土方と、その土方を包み込むように降り注ぐ桜の花びら。
 まるで完成された一枚絵のような光景に瞬間、目を奪われ。同時胸の内に湧き上がる不安にいてもたってもいられなくなる。
 土方が舞い散る桜の花びらに連れていかれるのじゃないかと、そんな事は有り得ないと理解していても不安でたまらない。
 気が付けば、茶を淹れる為に家へと向かった筈の足は土方の元へと足早に戻っていて。
「千鶴?」
 驚いたような土方の声を頭上で聞きながらも、ギュッと抱きついて顔を埋める。前に回った千鶴の手のひらに、自身の手のひらを重ねながら、土方が問う。
「……どうした? 何かあったか?」
 千鶴を案じる優しい声音に、何でもないとただ頭を振るばかり。けれどきっと土方には全てお見通しなのだろう。
 千鶴が胸に抱いた不安も、行動の真意も、全て。
「頭振ってちゃ何もわかんねーだろうが」
 低く笑いながら千鶴の手をそっと外し、改めて抱きしめなおす。何も言わずしがみつく千鶴の黒髪をゆるやかに撫でながら、土方が千鶴を見下ろした。
 ゆっくりと頭を撫でられる感触に、ホッと息を吐く。
「……桜が……」
「ん?」
「桜……の花びらが雪みたいで……それが……歳三さんを連れていってしまう気がして……」
 ポツリと零された小さな呟きに、土方が目を瞬かした。それから、口端に小さな苦笑を浮かべる。
「確かに雪みたいだけどな」
 ヒラヒラと舞う花びらを一枚手のひらで受け止めて、千鶴の目の前へと差し出した。
 淡い色の花びらは溶ける事無く手のひらの上に乗ったままで、消える事はない。
 当たり前だ。
 舞い散る様がどんなに雪のように見えようともそれは雪ではなく。時を経て、変色して朽ち果て大地へ還る事はあっても、雪のように儚く消え入る事はない。
「ほらみろ。溶けたりしねぇだろ。雪じゃねぇんだから当たり前だけどな」
 言い聞かすような優しい声音。相変わらず、髪を撫でる仕草は優しく丁寧で心地が良く。
 今、この瞬間を幸せだと思うからこそ、不安は一層募るばかりで。
「大体、そう簡単に死んだりしねぇよ」
「……そんな事、わかってます」
「なら、んな顔してんな」
 宥めるように殊更ゆっくりと髪を撫でながら、土方が呟く。
 そんな顔をするなと言われた所で、ジワリと眦に滲む涙は千鶴自身にもどうしようもない。零れ落ちそうなほどに溜まった涙を刀を握る無骨な指が拭った。
「そんな事言われても、どうしようもありません……」
 ふわりと吹いた風が、手のひらに乗ったままだった花びらを攫う。何の抵抗も見せず攫われた花びらはやがて、無数のそれに紛れてわからなくなる。
 それが、やがて訪れる光景に見えて、再び涙が溢れた。
 儚く散り逝く桜のようにいつか、風に攫われて大気に溶け、千鶴には見えなくなるのだろう。目の前で笑う人はそうやって逝くのだろうと、そう思うだけで涙は箍を切ったように零れ落ちて止まらない。
 まるで、夢のように美しい春先の光景に煽られた不安。
 想像するだけで、こうなのだ。
 いざ、その瞬間が来たら一体、どうなるのだろう。それは決して、遠い未来の話ではないと言うのに。
「お前は泣き虫だな」
 苦笑を零す土方の声を聞きながら、ひらりひらりと舞う花月の雪を見つめる。

 ――どうか。
 どうか、連れて逝かないで、春の雪。
 誇り高い鬼が贈った名のように、いつかは儚く散り逝く人だけれども。
 まだ、それは先の話でいて欲しいと願うから。
 まだ、共に在りたいと思うから。

 そんな切なる千鶴の願いなど知らず、ただ静かに花は舞い散るばかり。
 桜の下で寄り添いあう二人を隠すように、ただはらり、はらりと。


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