花降
 真白に閉ざされていた長く厳しい蝦夷の冬が終わり、ようやく訪れた短い春を謳歌するように、花々が次々と蕾を綻ばせ咲き誇ってゆく。
 それは五稜郭の裏手にある桜の園も例外ではない。
 淡い薄桜色の花が一斉に爛漫と咲いている様は幻想的で美しいの一言に尽きるだろう。
 ゆるりと吹く春の風が枝葉を揺らし、浚われ舞いあがった花弁がヒラリヒラリと風に遊ばれるままに宙を舞った。やがてそれは重力に従って地に落ち、足元に薄桜色の絨毯を広げる。
「そろそろ散り始める頃でしょうか」
「まぁ、満開だしな。もう散ってゆくばかりだろうな」
 爛漫と咲き誇る桜を眺めながら、千鶴が呟いた。同じように桜を眺めていた土方が、同士を示して頷く。
 この地の桜は、二人にとって色々と思い出深い。
 旧幕府軍と新政府軍が総力戦を繰り広げていたその時、土方はこの場所で宿敵とも言える男との戦いに決着を着けた。 今と同じように桜がまるで雪のように舞い散る光景の中、持てる力全てで刀を交え、誇り高き鬼であった風間に勝利した。
 あれから既に一年が経つ。
 あの時、共に戦った戦友の多くは未だ謹慎中だと風の噂で耳にした。
 同じように戦っていた身としてはここにいてもいいのだろうかと思うが、そもそも死人とされている以上、土方にはどうしようも出来ない。この泣き虫な妻を置いて、どうにかしようと言う気もない。最も、そんな事をすれば十中八九、大鳥の小言を喰らうだろう。
 えらく土方と千鶴の仲に心を砕いていた上司を思い出して、土方が口端に笑みを刻んだ。それから隣りに佇む千鶴へと視線を向ける。
「つーか、ついこの間花見しに来たばっかりだろ? 今度は何の用だ?」
「え?」
 問われた千鶴が、土方を見上げた。心底不思議そうに土方を見上げる瞳が、ややあって一つ瞬く。
「あ……れ? 私、言いませんでしたか?」
「聞いてねぇよ。桜の園に行きましょうって誘われただけでな」
「ご……ごめんなさい。言ったつもりになってました」
 困ったように眉根を下げた千鶴が苦笑を浮かべた。一つ小さく溜め息を落として、土方が千鶴を見返す。
「構わねぇけどよ。で、何用だったんだ?」
「命日……ですから」
 酷く真面目な表情を浮かべた千鶴がポツリと呟いた。今度は土方が瞳を瞬かせる。
「……誰の?」
「風間さんの」
 帰ってきた名前に何処か懐かしさすら覚えて、土方が目を細めた。
 土方に執着しすぎたあの男は、土方と決着を着ける為に自らが長を務めていた家すら捨てた。全てを捨ててまで土方を追い続けた男はこの場所で土方と刀を交え、散っていった。
 最後の最後にまがい物と蔑んだ土方を認め、儚くも美しい名を贈って。
「随分……懐かしい名前だな」
 感慨深く呟く土方に、千鶴が小さく笑い返す。
 決して、良い思い出ばかりがある男ではない。それどころか、まるで父のように慕っていた人を殺し、大切な仲間達を幾度も傷つけ、土方に瀕死の重傷を負わした憎い相手ですらある。
 けれど、それでも。
 彼の最後を見た者として、この日くらいは偲んでも良いのではないだろうか。家を捨てた彼を誰も偲びはしないだろうから。
 それに、この日は風間の命日であると同時に。
「……風間さんの命日でもありますけど、土方さんの命日でもありますね」
「俺?」
 思いがけない言葉に、土方が目を丸くして千鶴を見返した。 何だか、今日は千鶴の発言に驚かされてばかりの気がする。
「はい。歳三さんじゃなくて、土方さんの」
 そう呟いて、千鶴が視線を遠くへと向けた。
 正確に言えば死んだ日ではなく、死んだ事にされた日。けれど、世間一般に知れ渡っていた新選組副長【土方歳三】は確かに、この日死んだと言っても良いだろう。
「――――そうだな」
 千鶴の言葉に土方が苦笑を浮かべた。
 生きているけれど、世間的には死んでいる。何とも複雑で曖昧な立ち位置だろうか。自分と言う存在が根本から揺らぎそうになる程に――自分は一体、何なのだろう。
 そんな土方の内心を読みとった訳ではないだろうが、千鶴がギュッと土方の袖を掴んで引っ張った。思考の渦に沈みかかっていた意識が引き戻され、土方がパチパチと瞳を瞬かせる。
「歳三さんは歳三さんです。それ以外の何でもありません」
 真っ直ぐな視線が土方を射抜いた。あまりに的確な千鶴の言葉に、土方が苦笑を零す。
 いつだってこうして、千鶴に救われた。
 本人にそんなつもりは一切ないのだろう。けれど、千鶴の言葉はいつだって、迷い悩む土方を柔らかく包み込んで、掬いあげる。
「お前はすごいな」
 刀を振るっていた新選組副長たりえた【土方歳三】も、今こうして千鶴の横で穏やかに日々を重ねる【土方歳三】も他ならぬ自分自身でしかない。
 確かに世間的には死んだ事にはなっている。けれど、実際は死なず、ここにいる。ここで生きている。そしてそれを、知っている人間がいる。それで十分だ。何を不安に思う事があるのか。
「さて、黙祷でもして帰るか」
「……そうですね」
 二人揃って目を閉じ、祈りを捧げる。
 瞑目する二人の頭上へ、今は亡き人へを弔うかのようにヒラリヒラリと薄桜色の花弁が舞った。


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