虹と雨宿り
耳を掠めては消えゆく雨音に、沈んでいた意識がゆるやかに浮上してゆく。
薄く開いた視界が降りしきる雨を捉える。それをぼんやりと眺めながら、土方は視線を彷徨わせた。
シーンと静まり返った自宅に何の物音はせず、ただ静寂の中、優しい子守唄のような雨が奏でる音だけが響く。だが、それは自宅に誰もいない事を如実に語っていて。
雨が奏でる音とまどろみの残滓に身を委ねてしまいたい衝動を振り払って、寝転んでいた体を起こした。
「ん?」
今まで頭の横たわっていたすぐ隣に、小さな紙が置かれているのが目に留まる。
短い走り書き用の小さな紙には性格を表したような丁寧な文字が娘と買い物に出掛けてくる事と、すぐ帰る事を記しているが生憎と外は雨模様。
降り出したのはそう前の事ではないだろう。少なくとも、土方が転寝する時は降っていなかった。と、言う事は晴れていた内に出掛けて傘を持っていってない可能性が高い。
酷くはないが弱くもない。中途半端なこの程度の雨なら気にせず帰って来るだろう、千鶴一人の時ならの話だが。
今日は千鶴一人ではなくまだ幼い娘と一緒に出掛けている。千鶴一人なら平気でも、娘と一緒に雨の中を帰るわけにもいくまい。何処かで雨宿りしているだろう事は簡単に予測がついた。
外の天気をチラリと一瞥して、土方がゆるりと立ち上がる。
そうして向かった先は玄関。
ゆったりとした足取りで、その手には傘を持って。
たまにはこうした日があってもいいだろうと、柔らかな笑みで口元を彩りながら。
◆
絶えず降り続ける雨に、千鶴が溜め息を落とした。
土方の予測通り、買い物に出掛けた後で降り出した雨は勢いを保ったままで、一向に止む気配を見せないでいる。
一人での買い物なら濡れる事も気にせず帰るのだが、さすがに未だ十にも満たない幼い娘を連れて雨の中を歩く訳にもいかない。自分は平気でも娘は体調を崩してしまうだろう。
「困ったなぁ」
「大丈夫、母様」
雨を凌いでいる軒から空を見上げる千鶴の裾を引っ張りながら、桜が声をかける。
土方に似た整った顔立ちに、土方が間違っても浮かべないであろう、あどけない柔らかな笑みを浮かべて桜が笑う。
「大丈夫って何が?」
「きっと、父様が迎えに来てくれます」
「そうね」
桜が土方に寄せる絶対の信頼を微笑ましく思いながら、千鶴が口元に笑みを浮かべた。
あまりに土方に似すぎた外見に性格まで似ているのではと最初に疑ったのは一体誰だったか。いつか眉間にシワを寄せて睨みつけてくるのだろうかと若干、ハラハラしたがそれも杞憂だった。
外見とは裏腹に性格は千鶴に似ておっとり穏やかで、心配されていた眉間にシワ寄せも今の所ない。
千鶴に似た性格と言う事で若干、別の心配をしている者がいなくもないが、それは取り敢えず横に置いておく事にしよう。
「早く来てくれるといいわね」
「はい」
どちらに似たのかわからない丁寧な言葉遣いで桜が頷く。
そうしている間も降り続ける雨は、降り出したままの勢いで弱まる気配がなく。ここ数日、天気のよい日が続いていただけに珍しい。
雨が降るのはよい事だが、せめて出掛けていない時にして欲しいと思ってしまうのはいけない事なのだろうか。
「あ」
ジーッと雨を眺めていた桜が小さく声を上げる。
つられて向けた視線の先、行き交う人々の間に見えた姿に知らず笑みが零れる。
「よぉ、災難だったな」
「すいません、迎えに着て貰って」
「かまわねぇよ。たまにはこんな日があってもいいだろうさ」
申し訳なさそうに眉尻を下げる千鶴に、土方が快活に笑う。それから手にしていた小さな子供用の傘を見上げてくる幼い娘に手渡した。
「ほらよ、一人でさせるな?」
「はい!」
自分ひとり用の傘が嬉しくて仕方ない表情で桜が笑った。
土方に似ている桜だが、こうして満面の笑みを浮かべると千鶴によく似ている。
「転ばないよう気をつけてね、桜」
「大丈夫です」
「本当かよ……」
あまりに軽い足取りで先へ先へと進む桜の姿に、土方が心配そうに眉間にシワを寄せる。隣に並んで歩む千鶴が苦笑を零した。
「心配しすぎですよ、歳三さん」
「それは認めるけどよ。お前の血を引いてるからなぁ、桜の奴」
「……それは一体、どう言う意味ですか」
「あ? しっかりしてるようでどっか抜けてんだよ」
失礼極まりない言葉だが、否定出来ない辺りが若干、情けない気がしてならない。
確かに、抜けている所はあるが……と、納得いかないように首を傾げる千鶴を無視して、土方が空を見上げた。
「止んだみてぇだな」
「……本当ですね」
あの勢いが嘘のように雨は止み、鉛色の雲を割って光が差し込んでいる。
傘を閉じる土方の元に、先へと進んでいた桜が駆け戻って来て、笑う。
「父様、母様」
「どうかしたか、桜」
問うて先を促せば、小さな指が空の一角を指差した。その指先を視線が追って、土方と千鶴が口元に笑みを浮かべた。
「虹ですよ」
「あら」
鉛色の雲の晴れた空の一角を彩る七色の光の橋に親子三人、目を奪われる。
光と雨が作り出した偶然の光景は儚く、それでいて綺麗で。
「母様、綺麗ですね」
「本当。雨宿りしてよかったわね」
「はい。父様と母様と三人で見れてよかったです」
首を傾げてニッコリと笑う桜に、一瞬、虚をつかれた土方と千鶴も笑い返した。
それは、とある雨の日の話。