無言の攻防
「先生、すいません。お先にお風呂借りました」
「おう」
かけられた声に、何気なく土方が振り向いた。
部屋の入り口にちょこんと立ち尽くす千鶴は、体よりも大きなトレーナーを身にまとっている。
癖一つなく背に流れる髪は水気を含み、常よりその色合いも深い。頬も、千鶴には大きすぎるトレーナーから覗く首筋がまるで誘っているかのように桜色に染まっていた。
「…………」
その姿を目にした瞬間、身体の奥底深くで蠢いた感情に気づいて、土方が目を覆って苦笑を浮かべる。
千鶴の姿を前にして湧き上がったのは、間違いなく欲情だ。
目の前に佇む土方より一回り以上も幼い少女から立ち上った微かな色香に、鉄壁と言っても過言ではない理性が揺らいだ、その証。
ちょっとやそっとの事で揺らがない理性も、最愛の少女相手だと簡単に揺らぐらしい。思ってもいなかった事実に、もはや苦笑すら浮かばない。
――理性には、自信があった。
例え、何があろうとも、千鶴が土方の教え子である間は平気だろうと……揺らぐ事はないだろうと思っていた。だが、実際はどうだろうか。
視線を少し下にずらせば、警戒心の欠片もない表情で見上げる千鶴と視線がぶつかる。その薄く開いた口元やトレーナーの襟元から覗く鎖骨から匂い立つ色香に、頭の芯がグラリと揺れた。
これは、何と言うか。
「色んな意味でまずいだろうが」
「? 何がまずいんですか?」
「……俺、口に出して言ったか?」
「はい。もしかして、聞いちゃまずい事でしたか?」
「……いや、別にそう言う訳じゃねぇが……」
語尾が少し擦れて消えかけたのは、教え子に欲情したと言う背徳感だろうか。それとも、別の感情だろうか。
「先生?」
土方の葛藤も知らないままに見上げてくる少女の姿に、土方が苦笑を零す。
「千鶴」
「はい」
呼び名に込めた様々な感情に、果たして少女は気付いているだろうか――いない確率の方が高そうだが。
声を出さず、手招きだけで少女を呼び寄せる。何の警戒も、疑いも抱かず近寄ってくる少女の背に手を回して、勢いよく引き寄せた。
「――今はこれで我慢してやる」
そっと耳元で囁いて、そのまま黒髪の間から覗く額に触れるだけのキスを落とす。
「え……えええええええっと……あ……あの、そのっ!!」
頬を朱に染めて、千鶴があわあわと慌てふためく。酷く子供染みたその行動に、土方が小さく――千鶴に分からない程小さく――溜め息を吐いた。
そう、これでいい。
今はまだ土方は教師で、千鶴は教え子だ。その関係は後二年と少し……千鶴が学校を卒業するその日まで変わらない。今のままで、千鶴に手を出す訳にはいかないのだ。卒業を迎えるまでの短い間ぐらい、理性を保たせてみせようではないか。
だが。
((卒業したら、覚えてろよ?))
内心、こっそりと呟く。
こうまでして揺らぐ理性を抑えているのだ。卒業したら、手加減はなしだ。泣こうが、喚こうが構いはしない。
「何をアタフタしてやがる。おら! とっとと布団入って寝ちまえ!!」
未だ顔を真っ赤にしたままの千鶴の頭を、ガシガシ撫でて、寝室へと押し込んでしまう。
「え、でも先生は?」
「あ?」
「先生の家にはベット一つだけじゃないですか。それなのに私が使ったら……」
「あのなぁ。恋人同士でもあるが、教師と生徒でもあるんだぞ。同じ布団で寝れるか、アホ」
「アホって……じゃあ、私そこのソファで」
「つべこべ言ってねぇで、さっさと布団入れ。なんなら、俺と夜通し勉強でもするか? みっ
ちり扱いてやるぜ?」
口端を持ち上げて、土方が意地の悪い笑みを浮かべた。肩をビクリと揺らした千鶴が、蒼褪めながらベットの方へと後ずさってゆく。
「す……すいません、先生。ベットお借りします。お休みなさい!!」
勢いよく踵を返すと、一目散にベットへと向かった。細く華奢な身体がベットへと潜り込んでゆくのを見届けてから、土方が静かに部屋の扉を閉める。
「――――おやすみ」
小さく紡がれた穏やかな声音が寝室の空気に溶けて消え、土方と千鶴のやり取りで遠ざかっていた静寂が再び部屋を満たした。音を立てて閉じた扉をしばらく眺めていた土方が、やがて視線を扉から外す。
「やれやれ……」
静かにひっそりと鬩ぎ合っていた無言の攻防は、辛うじて理性の勝ち。だが、次はどうだろう。理性ではなく本能が勝つかも知れない。理性が勝つとは言い切れない。
既に何度目になるかわからない苦笑を零しながら、土方が毛布を片手にソファへと移動する。酷く物騒な決意も無言の攻防も全てを内に飲み込んだまま、土方がゆっくりと目を閉じた。